みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#60 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月09日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:18分45秒から21分05秒まで

◇◇

四六時中、鉛筆と紙を持って座っている。

レストランにいる時、大抵私は、メニューや、あれは何と言うんでしたっけ、そうプレースマット、これを使います。

文書保管所には、私のプレースマットの全コレクションがあるのですが、そこで本を書いたり、それらのプレースマットにも下書きを書き込んだりします。

それはipadの前の話ですが、何であれどんどん書き込んでいくのです。

私は次のような疑問を書き込むこともあります。

自分に問うのです、確信をもって知っていることは何かと。

キリスト教信仰や組織神学、神に関する教理、キリストに関する教理、救いに関する教理、終末論に関する教理、これらのことすべてにおける私たちの確言について、これらの信条すべてに関して、同等の確信をもって信じているとは言えません。

他の信条ほど確信していない信条もあります。

これは他の神学者にも当てはまると思います。

誰でもそうではないでしょうか。

それで、何かを試みる時はいつでも、最初の原則に戻るようにしています。

確信をもって知っていること10項目、自分の思いが決して揺らがない10項目は何かを書き記すのです。

そして、確信をもって知っていることをさっと書き留めておくのです。

例えば、再生は信仰に先んずるとかであります。

このことに関しては絶対の確信があります。

アルミニウス主義は間違っているということは確信している。

ディスペンセーション主義は間違っているということも確信しています。

これらについては全く疑っていません。

夜になったら私の方が間違いかもしれないと案じてもいません。

間違ってはいないことを私は知っています。

アミレについて、プレミレについて、ポストミレについて、プロミレについて、私が正しいかどうか知りたいのではないでしょうか。

このような異なる見解に関して、大いなる疑いを持っております。

私はキリストというお方について絶対的確信を持っております。

確信をもって私が知っていることの一つは、神は存在するということであります。

確信をもって私が知っていることの一つは、神は存在するという確信に私を至らしめたということであります。

神は存在する可能性があるということではない。

私が存在するということを私は知っているということと全く同じように、神は存在するということを私は確信しているのです。