書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

syuun の不思議な少年時代 その1

2007-06-27 09:47:50 | 世の中妙な??事ばかり
「生きている内にしたいこと」
実は、幼稚園から小学校と続く、妙な学校体験を何かで残しておきたかったことだ。
そして、そんな体験は自分の娘を見ていて二度と起こらないだろうと思う。しかし、色々な意味での幼児体験は貴重な教訓となる。

小さい頃の記憶は、大体どこまで覚えていただろうか。
普通覚えていて、3歳くらいなものだ。
小生場合は、目が開かない時からの記憶というか、感じだ事柄を未だに覚えている。
真っ暗な世界から、単に光が差しているぼやけた世界。
だんだん焦点が合ってきて、天井の壁紙の模様がはっきり分かるようになった世界。
体が少しずつ、横に動けるようになって、あっという間にはっていたころ。
一日一日が瞬く間過ぎ、祖母や叔母が「おいでおいで」をして、だれが自分の母親か試された時。
バタバタはっていた時に、突然立てることが分かって歩き始めた時。
何やら鮮烈な印象は未だに残る。

そして何やら忘れられないのは、非常に妙なことだ。

幼稚園を卒園して、桃井小学校と言うところに進学することになった。
桃井(もものい)小学校とは、群馬県で最初に出来た学校だ。だから父も卒業生だった。
しかし、祖母は付属小学校だった。

4月入学式
この記憶は、一切無い。
まず母に連れられて学校に行って、何だか分からず職員室で待っていた記憶だけだ。
それも、卒園式に着た上着が嫌だと言って、当時の小学一年生がこぞってきていた白い襟の着いた上着を買って貰った。
1回しか着ないのだから、もったいないと母言ったが、そこは何やら押し切った。
今考えてみたら、自分の娘の小学校入学式のためのブレザー。これも一回しか着なかった。

記憶をたどると、桃井小学校の入学式には、出ていない。
小生の集合時間は、午後で午前中に桃井小学校の新一年生の入学式は終わっていた。
そして、そのクラス編成が撤収されて職員室に掲示してあったわけだ。
ところが、そのクラス編成に小生の名前が載っていない。
当然先生に聞いてもチンブンカンプンなのだ。

午後の昼食時間も終わり、児童はすでに帰り、閑散としてきた職員室に小生と同じような一年生が来た。
その頃になって、担任となるT先生が職員室に現れて、A君(小生)は南校舎一階の教室に行ってくださいという。
入学した頃は、小学校は相当大きなものだった。
本校舎、東校舎、南校舎とあって、全校児童は約1500~1800人だ。
そして、職員室から東校舎へとつたい、南校舎へ。
南校舎には、南校舎用の入り口がきちんとあって、なんと案内が出ていた。

小生のクラスは、総勢17名。
午後から、クラスに集まって入学式をした。そして多分校長が出てきて挨拶したと思が不明だ。
なにやらあった、誰か挨拶をしたようだ。
T先生は言う。
今日午後からにしたのは、午前中だと沢山の児童が集まって煩いのと、遠くから始めてこられる人もいるので‥‥‥

おや区域外からもいるのか‥‥‥と思ったが、実情は分からなかった。
そして、明日からは午前中からですと言った。

このクラスは、兎に角(とにかく)異例なクラスだった。
まず、午前と昼に栄養剤が出だ。
肝油とカルシュウムだ。
そして、朝登校すると、まず歯磨き。続いて栄養剤を飲む。
これも、初めは良かったが、飽きてくるとトイレに捨てる様なことがで出来た。

次に、給食はいつも特別料理だった。特別料理と言っても、大して変わることはない。
まあ、一般のクラスで1か月に1度出るような毛色の変わったものだった。
そしてパンは必ず食パン。‥‥当時の配給でボロボロのパンだったが、後からみるとコッペパンより余程ましだった。
これも、同じく1か月に1度のもの。

給食の給食当番は、一般クラスの四年生か勤め、授業が終わった後の掃除も上級生がした。
一般クラスが一クラス52-3名のところ、優雅なものだった。

よく教育委員会のお偉い先生らしい人が、毎回のように訪ねてきていたりしていたこともあり、授業も中断することも珍しくなかった。

そして極めつけは、夏休みに夏期授業があったことだ。それも8月。

夏期授業は、夏休みの宿題をやったり、特別な教科書や問題集など珍しいものばかりだった。
だから、2年くらいになると、夏期講習に参加希望者が一般クラスから続出した。
しかし、そこで宿題をやった記憶はない。

授業は、やはり幼稚園を休んでいたのが多少影響した。国語の授業など既に教科書をすらすら読める児童の幾人もいた。
但し、そんなものは夏休みの頃には、追いつき解消した。

さて、陣容を見てみると
電車で1時間はかかる隣町から来たY
来るのに2時間は掛かると言ったT
今では市内になってしまった郡部からきていたM
その他は入れ替わりがあったからよく分からなかったが、大方前橋の市部だった。
詳しくは、定員15名。予備2で17名。
最大で18だったが、受け入れを断ることが多かったようだ。
遠くから来る児童は、一旦通学を止め又、来るようになったりして、最終的に3年まで通して在籍していたのは13名程度だった。

いか つづく‥‥‥‥

国民性を表す映画文化

2007-06-27 09:45:24 | 映画鑑賞関係

映画というものは、国民性を表す文化だ。
AOLが作った偽ドキュメンタリー映画「南京」は、多分日本では出来ない映画だろう。
なぜなら、日本には虐殺文化がないからだ。歴史をひもとけば、織田信長、豊臣秀吉時代しか歴史上確認されていない。
一方、中国は、虐殺の歴史だ。それは、秦の始皇帝よりもずっと以前の商王朝の人間狩り、処刑から始まる。
項羽・劉邦の項羽は、10万人の捕虜を穴埋めにし、ずっと下がって三国志でも虐殺はある。
国民党軍との戦いでは、八路軍の包囲によって、南京で20万人が餓死した。
毛沢東の政策でも何十万単位の人が死んだ。

米国も、実は虐殺の歴史だ。
それも、メイフラワー号東海岸に到着(1620)したときから、虐殺が始まる。
即ち、サンクスギビングディ‥‥1621年秋
清教徒達は、冬が近くなり食べ物がなくなった来たところ、近くのアメリカインディアンの助けを受けた。
ところが、夜になるとそのアメリカインディアンの寝込みを襲って、皆殺しにし食べ物とその土地を奪ったのである。
収穫祭とは、アメリカ・インディアン狩りの事だ。
それ以後、アメリカ・インディアン狩りが南北戦争後も続いたのは西部劇を見れば判る。
アラスカでは、アラスカ原住民の抹殺。
ハワイでは、王族の抹殺。
フィリッピンでは、10万人以上の虐殺。
二次大戦のドイツとの戦いでは、ドイツ軍捕虜を捕虜と認めず、食料を与えないまま、赤十字の支援を阻止してまで、野宿させ5万とも6万とも判らぬドイツ人を虐殺。
そして、日本との戦いでは、日本の捕虜は、民間人、軍属、女、子供、赤ん坊にいたるまで、空港の真ん中に集めて火炎放射器で焼き殺した。(リンドバーグ将軍の日記)

米国中国もよくよく見れば、虐殺はDNAとして持っている民族だ。
そうでなければ、南京大虐殺は20万人という数字は理解できない。
そして、映画でやっている虐殺は、中国人、米国人が犯してきたそのままの姿であることがよく判る。

今でも、オリンピックやマンション建設での立ち退きに暴力をもちいているのが報道されるのは、その現れてあろう。

文化や国民性の違いを理解するのは、中々難しいものだ。


家族を潰す政策が勧める、人との希薄さ

2007-06-27 09:43:42 | 日記

国民生活白書では、「人と人との繋がりが希薄になっている」と指摘しているという。
「コミュニケーションの減少などで心の病が増えて」というなら、米国の傾向により近づいたといえる。
ここで面白いのは、「平均的なサラリーマン世帯」を「専業主婦と小中学生の子供がいる家庭」としている事だろう。
税金面で、配偶者特別控除を廃止して、専業主婦排除を目指していたのではなかろうか。
ここのところの政府が取り組んでいるのは、自国を愛する愛国心だとか、家族の絆を取り戻すということだ。
ところがやっていることと言えば、「家族を崩壊させようとする」なことばかりだ。

結局、専業主婦を家庭からあぶり出して、働かせ、その代わり子供は、国が見ます。
老人は、子供が面倒を見る必要がなく、これも保険で国家が面倒を見ます。
これは、社会主義国家の典型だ。
本来、日本の「平均的なサラリーマン世帯」は専業主婦がいるという前提に成り立っていた。
ところが、専業主婦が立派な幸せな家庭を作ると、それを妬む連中が出てきた。
特に、政府に影響がある女性の学者などだ。
彼女らの多くは、未婚で家庭を持たないから、基準は自分たちと同じ「働く女性」の視点しかない。
「人と人との繋がりが希薄になる」と言うのも、何やら責任があるのではないか。

そして、国民生活白書の前提が崩れると、何も意味がなさなくなる。
後は、単なる直感だ。

「人と人との繋がりが希薄になる」‥‥その最大の原因は、核家族である。
即ち、父母と同居しない家庭だ。
実際仕事に忙しい父親は、家庭は寝る場所以外のものではない。
土日は、家でゴロゴロしているか、ゴルフで早朝から留守だ。

だから、マンションの住民として引っ越してきても、「町内費」を払わず、町内に参加しないなどという人は珍しくない。
子供が小さければ、子供を通じて町内に参加すると言う事もあるが、そうでもない限り無縁だ。

小生など、何と10年も地域の「組長」をやった。
これは街全体の主要な人と知り合いになる事で有効であった。
小生などの、世代は岡崎久彦氏によると、戦前教育第二世代というのだそうだが、「コミュニケーションが取れていない」と言う事はない。
逆に、最近では「取りたくない雰囲気もある。」

そして、小生などの世代は、土日は「家族のためのもの」という家族サービスを徹底している人が多い。
又、妻などの要求も休日に「家族サービス」を求めているのは、「高度成長期の企業戦士」とは大きな違いだ。

まして、小生などは「書道」をやっていると、「コミュニケーション」第一。
書の実力は第二だ。
なぜなら、書の方の実力は「当たり前の世界」だからだ。

7月からまた毎日書道展が始まる。
最近、たまには静かにして勉強させて欲しいと言うのが、妙なところだ。