書道家Syuunの忘れ物

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小宮姓の元になった忍城攻防戦の真実

2012-06-22 07:50:59 | 映画、書評など
小宮姓の元になった忍城攻防戦の真実

「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦5


中央の女性二人のうち左が母、右が祖母。(撮影は、Syuun RICOHオートハーフ)

●忍城攻防戦というのは後世の伝えられる事柄には非常に秘密が多く、明らかに嘘とわかる分かるデタラメなども散逸される。
そのいい加減な話というのも、当時の人たちにしては当然あり得ないことであったから「与太話」として笑って済ませられたものも、時が経ってあたかも真実のようになる。

●この小宮家に関して書いている小生(Syuun)との関係は、母がこの小宮家の出と言うことである。
そして小さい頃に、祖母や伯父などに種々のことを聞いて見たりまたは、子どもだと思って無視されて聞きかじったことが沢山あるからである。
それだけでなく、時代は移り母も含めて伯父叔母の全ては鬼籍に入り、小宮家の話を知る人もほとんどいなくなってしまっている。
それで、多少は残しておこうと言うのがこの「忍城攻防戦の真実」である。

その中には「おまじない」という小生には良く分からない何百年も伝承されてきた病気を治す術があって、このことも多分親族では誰も知る人はいない。

祖母の晩年にこの「おまじない」の術を母に伝えようとしたのだが、「教えても良いというお告げ」が一回だけあり、それを当時迷信嫌いの母が拒否した。
それでその「おまじない」の術は(小宮家では)絶えてしまった。

●この忍城攻防戦において、今まで述べてきたように忍城の事実上総大将は、戸塚(別名・小宮山城)城々主、小宮山弾正介・忠孝。
実行部隊の指揮官は、小宮山(小宮)源左衛門・忠昌である。
この後の小宮源左衛門に似た人物が小説にも現れるというのは偶然ではないだろう。



●この忍城攻防戦の結果というのは、関ヶ原の戦いの直前において種々の影響をもたらし、その影響だけが現在に伝えられているという妙なことである。
そして、この忍城攻防戦では主力としては小宮山弾正介・忠孝旗下の戸塚城兵という元武田武士団であることは間違いない。
そして当時の農民というのは兵農分離されているわけではなく、槍や鉄砲なども持っている人達である。この武器などが国民から取り上げられた本当の刀狩りは、時々「拳銃などが倉から見つかったと言うように」実は戦後になってからである。

こういうふうに、農民というのを単に畑仕事をしている人たちだと考えると言うのは平和ボケしてしまった今の日本人なのかも知れない。
実を言えば江戸時代の農民や農村というものを学校の教科書でさえまともに教えられていない。
教えられているのは搾取される「かわいそうな農民」という共産主義思想でしかない。
だから江戸時代の「士農工商」という言葉の意味も歪曲して教えられているような気がする。
ここで断っておくと、「士農工商」の農とは「名主・庄屋・郷士・地侍」と呼ばれる元々の豪族のことである。
そして、そのほとんどが江戸初期のではどこかの大名に仕えた侍でもあった。

●この忍城攻防戦の結果としてどう言う事が起こったのかというと、この戦いに参加した元の武田武士団の仕官が決まったと言うことである。
この関ヶ原の戦い前の於いて、武田武士に人気が出で多くの家中に召し抱えられたという史実は有名である。
小説「水の城」にも
「徳川家康は、攻め手側にいた家臣からもその話を聞き、強く望み、実際、多くの忍城の武将たちは一族郎党、足軽らとともに徳川家に雇われるようになった。」
と書いてある。
*成田氏長も福井城1万石(会津若松)、そして野州烏山3万7千石の城主になっている。
そして「甲斐姫」はその武勇伝によって秀吉の側室になったのではなく、当然その「忍城攻防戦」の勇姿にあやかったと言うものである。

こう言う話というのは、あの忠臣蔵の直ぐ後の「仕官の話しが多くあった」話とよく似ているように、「武勇」と言うのが一つのステータスである。
武士というのは、常に心は戦場にあるという心構えを持つというのは、江戸時代をも通じて幕末でもそうであった。
NHKの「龍馬伝」で主演した福山雅治氏の坂本龍馬の様には「へらへら」と笑うというのは「常に心は戦場にあり」という心構えからは正にあり得ない。

そして、この成田氏家中ではあまりに当主成田氏長が不在の時に勝ちすぎてしまったからその内部でも粛正が密かに行われた節がある。
だからその後当時の城代、成田長親はいらない嫌疑をかけられて放逐され、小宮山源左衛門・忠昌は、「山を捨て」小宮になったと言われる。
即ち、成田氏家中には「小宮山」という人物はいなかったと言うことになったのである。



又、持田口を守った出城が後の小宮家の屋敷になるのだが、当時の大戦(いくさ)名人と謳われた真田昌幸がここを攻めた。
この先攻隊が真田幸村であった。
ここで真田幸村はかなりの苦戦をすることになるのは事実の通り。
そしてこれが大阪冬の陣の「真田丸」に繋がるとは誰も予想はしていないのだが真実である。


そして、小宮源左衛門・忠昌が帰農する事になり、その元の出城を屋敷とする。
その縁者は、その武勇を羨望して「小宮姓」を名乗ったと言うのが、関東での小宮姓の元である。

そして、この小宮氏に対して代々敬意を払うと言うのが暗黙の了解であった実例がある。それは小宮家の菩提寺「真言宗 智山派 医王山 遍照院」と言うのが鍵である。
この遍照院「慶長9年(1604年)徳川家康により薬師堂領として25石の御朱印を賜」とあり徳川家康も敬意を払っているだけではない。

この遍照院の隣の「臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 大蔵寺」は、「文政6年(1823年)子孫の松平忠堯(タダタカ)は忍(行田)に移封された際、駒形の遍照院の南隅に寺を移し、現在に至る。」とある様にわざわざ隣に移している。

これはなぜかと以前小宮家の当主に尋ねたところ「小宮家に敬意を払って」という答えが返ってきた。

ちなみに、成田氏は水上公園北の「曹洞宗 平田山 清善寺」であって、遍照院に対して城の反対側である。
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