書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

民主的でない独裁国家の象徴

2007-05-22 22:53:08 | 読み解けば‥‥

ここのところロシアが色々な問題を引き起こしている。つい最近は、エストニア問題。
これも「首都タリン中心部からソ連軍戦勝記念の銅像を撤去、移設した。」事に過ぎない。
早い話、エストニアの内政問題だ。
ロシアの元情報機関員リトビネンコ氏毒殺事件でも、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のルゴボイ元職員であれば、プーチン政権のエージェントであることは100%間違いない。
なぜなら、エストニアに対する反発として、エストニア大使館に何百人も若者を動員してシュプレヒコールをさせているで件で政府の関与が明らかであるからだ。
これは、「新イズベスチャ紙」によれば一人500ルーブル(2,343円)でかき集められたアルバイトであると報じている。
その上、官製デモ隊には、バンとジュースの差し入れ、野営用のテント、簡易公衆トイレ付きだ。

だからデモ隊が言っていることが少々妙だ。
「ファシズム国家エストニアをつぶせ」
「銅像撤去は、第二次大戦の結果を書き換えようとする動きだ」

もともとデモ隊の首謀者は、「ナーシ」「若きロシア」などのプーチン政権お抱えの組織だ。

何やら中国の反日、官製デモとそっくりではないか。

そもそも、民衆の圧倒的な支持の元の政権でない独裁政権というのは、批判に非常に敏感だ。
なぜなら、元々のソ連のボルシェビキ自体が少数派、精々20-30%程度の支持しかなかった政党だからだ。
それを暴力革命によって軍隊で多数派を粛正し、少数派が政権をにきったと言うことは、常に政治的な弱点を持っている。
即ち、それは国民か支持していないと言うことである。
だから、恐怖によって国民を従属させたのか、レーニンであり、スターリンだった。
毎週印を付けて、一つの村を全員虐殺して村を抹殺して行ったのはこの「恐怖」を煽るためだ。

この様なことから、プーチン政権も中国の政権も国民の支持を受けていないと言うことで、批判には敏感なのである。

民衆・国民の支持を受けていれば、単なる批判など「蛙の面に水」だ。

元露スパイ毒殺で元KGB職員に逮捕状 英検察

英検察当局は22日、ロシアの元情報機関員リトビネンコ氏毒殺事件で記者会見し、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のルゴボイ元職員を容疑者と断定、訴追するのに十分な証拠があるとの見解を示し、既に逮捕状が出されていることを明らかにした。
 検察当局は早急な身柄引き渡しを求める方針だが、ロシア側は「ロシア憲法に違反して不可能」としており、実現は難しいとみられる。

 ロシア連邦保安局FSB)の元幹部で、プーチン政権に批判的だったリトビネンコ氏は昨年11月1日、亡命先のロンドンで突然体調を崩し、入院。同23日に死亡し、尿から致死性の放射性物質ポロニウム210が検出された。
 ルゴボイ容疑者は、リトビネンコ氏が体調を崩した当日、ロンドン中心部のミレニアムホテルで同氏に面会したほか、それ以前の立ち寄り先からもポロニウムが続々と検出されたことで事件関与への疑惑が一気に深まった。

 ■露は身柄引き渡し拒否

 インタファクス通信によると、ロシア最高検察庁の報道官は22日、リトビネンコ氏毒殺事件で英検察当局が容疑者と断定した旧ソ連国家保安委員会(KGB)のルゴボイ元職員の身柄を英国に移送することはできないと述べた。(共同)

中国大好き・谷村新司の自分探し

2007-05-22 22:51:44 | 雑感・どうでも良いこと

谷村新司と言えば、今や中国の大学の講師か何かで、親中国派のナイーブな人間として有名だ。
谷村新司は「人間みな兄弟」のようなことを常々言っている人物でもある。
昔ながらの日本人で、典型的な博愛主義の日本人だろう。
但し、日本人的な「博愛主義」というのは実は、日本人だけの感覚であることが判っているだろうか。
かの有名な「シュバィッアー」という伝説的な博愛主義者も実は、いろいろと知られていないことがある。
誰でも100%の博愛主義者などいないのが現実だ。
それを100%善意を持って行ってしまうのが日本人だ。
産経新聞によれば、
「アサヒビールなど日本企業3社の日本資本による循環型農場「朝日緑源」(山東省莱陽市)が本格始動した。」
(中国農村、蘇生なるか 日本資本の循環型農場が本格始動 )
とあるように、15億円を投資して中国の農村の再生を目指している。

思えば、「満州」建国以後の満州入植、開拓団もそうであった。
放置された原野を切り開いて、耕地にしたのはその開拓団だ。
まぁその苦労を後から、日本人が肥沃な農地を横取りしたと宣伝されるのだから、死人に口なしだ。

さて、谷村新司は、若い頃米国を無銭旅行したという。
いつ頃か判らないが、少なくとも1ドル300円程度はしていた頃だろう。
そこで、お金がなくなったら、米国の学生がカンパしてくれて、助かったとか、風呂に入れてくれたとかの米国人に助けられたことを吹聴していた。
だから「人間みな兄弟」なのかも知れないが、古き良き時代の「感慨」というものだ。

ロシアに行けば、3日間で逮捕だろう。
その上、身ぐるみ剥がされて‥‥どうなるか。

何も取りようのない「男」だから無事で済んだものの、女性の場合無事で済んだことは聞いたことがない。
確か台湾に一人旅をした女子大生は無事に戻ってこられなかった。
無事だったのは奇跡に近い。
そういえば、イタリアかどこかで、女子短大生の卒業旅行の話。
5-6人まとめて、連れ去られて日本の週刊誌で大騒ぎになった。
但し、全く不問だった。
多分今年もやられているのだろうな、ヨーロッパで。


養子であるが故に絆が強い現実

2007-05-22 22:49:24 | 読み解けば‥‥

他民族である養子が上手く行くのは、米国ならでのことである。
親子も他民族化しているならば、当然実の親子でないことは見れば分かる。
子供もこの様な多民族国家である米国なら、奇異に映らない。
これが単一民族の日本では中々そうは行かないのが実情だろう。

実の親子ではないと言う関係で育つというのは、真の親子とはまた別の感情をもつ。
特に成人すると感謝というか、親が苦況に至ると必ず恩返しをしようとする感情が強い。
なぜ、真の親より絆が強いかと言えば、「真の親」であるという甘え、育てられて当然だと思う甘えがないことだ。
誰だって自分の子供に、たとえば「お母さん」に育てられて感謝しなさいといえば、「きょとん‥と‥驚いたそぶり」をするだろう。
‥‥母の日とは関係なくで‥‥
普通子供というものは、「自分が育てられ、面倒を見て貰っている」のが当然だと思っている。
逆に言えば、あまり面倒を見て貰えない「真の親」を恨んだりするものだ。
ところが、それが初めから真の親ではないことが物心ついたときから分かれば、「面倒を見て貰っている」のが当然だとはけっして思わないことだ。
だから「面倒を見て貰っている」ことに非常に感謝する。
特に、人間というものは自分が生きる上で苦境に陥っているとき、助けて貰った人には「普通」感謝するものだ。
人の一生の内で、幼年期というものは一番危険なときである。
このとき親がどの様に自分の身を守ってくれたかで、親に対する一生の感情が決まる。
近年の親殺しで「親を親と思わない」のは、この幼児期に自分を守ってくれた意識を持たないと言うことだろう。
但し、以前中国からの留学生が、里親になってくれた日本人を殺すという事件が起きたことがある。
日本人だから、金を持っていると思って殺した、金が必要だったので殺した‥‥‥同じ環境で育たない人間の扱いがいかに難しいかの見本だ。

さて、ここで見落としてはならないのは、士官学校へ行ったのは「白人の次男」だけだと言うことだ。
近年人種差別が薄くなっているとはいえ、米国軍隊、特に海兵隊での人種差別は、未だに根強く残っている印象がある。
それは、かって日系人の海兵隊予備士官学校生徒が人種差別で退学させられ、その後裁判で勝ち予備役の海兵隊「大尉」に叙せられたことだ。
尚、その日系人は立派な弁護士だから軍人になるわけではなかった。

【外信コラム】ポトマック通信 親子のきずな

元米国防総省日本部長で現バンダービルト大学教授のジム・アワー氏から「二男が卒業式で卒業生代表としてスピーチをしたのでその内容を読んでやってください」と連絡してきた。二男のジョンエド(22)はサウスカロライナ州立軍学校を終え、海兵隊に入るという。4年制大学のこの学校は「ザ・シタデル(とりで)」と呼ばれる南部の名門士官学校である。二男の卒業でアワー家の子供3人はみな大学を終えた。

 長男のテイ(24)は音楽専攻で昨年、メリーランド大学の大学院へ進んだ。長女のヘレン(23)も一家の住むテネシー州の大学を昨年、出て、この5月から日本で英語を教えるJETプログラムの教員となった。3人とも高校までは母ジュディさんのホーム・スクーリング(家庭での教育)で育った。

 アワー家の子供3人は養子である。テイは日本人、ヘレンは韓国人、そしてジョンエドは米国人の血が流れ、みな生まれてすぐ夫妻に引き取られた。それから20年余、みな立派な米国人の成人としての巣立ちとなった。この間、3人が愛情をたっぷり受けた両親に真からなついた様子は何度もながめてきた。

 養子であることをオープンにしての子育ては、日本の感覚では奇異に映ることもあった。だが親子5人はいつも固いきずなを感じさせた。これで人生の一つの分岐点を過ぎたというアワー氏は「子供たちは私たち夫婦の人生を実に豊かにしてくれました」と感慨深げにもらしていた。
 (古森義久