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書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

新井祥碩・新井三喜・親子展 をみる

2011-06-05 19:12:04 | 風景写真館
新井祥碩・新井三喜・親子展 をみる

6月3日から12日まで安中市の妙義山美術館で親子展が行われている

新井祥碩先生の息子さんが漫画家とは知らなかったものの、案内状をいただいたので行ってみると中々面白いものである。
祥碩先生の作品は、大方こんなものと予測がつくものの漫画の方は中々よく分からなかった。



ここでは、漫画の原画が飾られていて本来写真を撮っては良くないものの、祥碩先生と懇意なために撮らせていただいた。
実際、「東北の被災地応援イラスト用」という「肉まん」などはWebサイトに掲載されている。



どちらかというと、萌え系の漫画というのも書展と一緒にすると妙なものであった。



それにしてもこういう「絵」というのはある程度若くないとやる気にならないと言う気がする。
その昔毎週先生のところに通って、花のスケッチをしていたことがあった。
花のスケッチも約2時間のうちに描き上げるということをしていたから、かなりの集中力が必要だった。
その後、先生が亡くなってしまったために絵を描くのを止め、たまに昔のように絵を描こうと思ったら集中力が続かなかった。
やはり年を取れば取れほど、集中力が落ちるというのは困りものである。


第64回書道芸術院展・ダイジェスト静止画版 その1

2011-02-09 19:26:51 | 風景写真館
第64回書道芸術院展・ダイジェスト静止画版 その1

毎年この2月というのは展覧会シーズン真っ直中である。一時は群馬県展も重なって、何が何やら分からないときもあった。今年はそんなことにはなっていない。それでも2011/02/09は市民展の陳列だった。
県展が2月にずれ込んだのは、2年間。県立近代美術館が改装中だったからで、同じように前橋市では市民文化会館が改装中である。



銀座セントラル美術館5階

そして、東京都美術館も改装中だから第64回書道芸術院展も中央展は、東京・銀座セントラル美術館になった。
当然、銀座セントラル美術館や銀座画廊美術館では全点展示などは出来る筈もない。
それで西日本展は、奈良県文化会館。東日本展は、せんだいメディアテークで行われる。
従って、小生の作品もこの中央展が終わると宮城県の仙台まで送られる。

いずれにせよ、銀座5階には財団役員と院展役員の常任総務、総務選抜と審査会員選抜。
そして、上位賞・審査会員に贈られる峰雲賞、審査会員候補に贈られる書道芸術院大賞・準大賞、白雪紅梅賞までである。

銀座画廊美術館

8階の銀座画廊美術館には、無鑑査上位賞の院賞、毎日賞。公募最高賞の準特選が展示されている。
上京したのは5日。この日は作品鑑賞会、表彰式、レセプションが有楽町の帝国ホテルで行われた。この行事に出るだけなら造作ないところだが、当然銀座セントラル美術館や銀座画廊美術館に寄り、あわよくば渋谷東急まで足を伸ばして展覧会を見る有様‥‥??。
セントラル美術館には9時45分くらいに到着したのだが、もう既に観覧者がみるみると入ってくる。10時を回る頃になれば、ビデオを回していることも出来ない状況であった。
それで、後から考えてみると余りよく展覧会を見ていないという感じになっている。

作品鑑賞会・後藤大峰先生の作。

午後1時30分から、表彰式の会場で作品鑑賞会があった。
冒頭は、恩地春洋書道芸術院会長の説明。
その説明の内の長さ約17分が名誉顧問の村野大仙先生の作品解説だった。プロジェクターで映し出される映像というのがモノクロであったから感じがつかめない。

恩地先生が解説した、左・村野大仙先生の作

丁度写真を撮っておいたので、なるほどと言う感じがする。

峰雲賞・尾形澄神先生。
この後副賞として、香川家から香川峰雲先生の印の額が贈られた。


この作品鑑賞会は、先生方の解説が長く結果、表彰式はレセプション(祝賀会)の15分前まで掛かった。
作品鑑賞会の映像は、その後「動画編」で紹介する。
又、第64回書道芸術院展の峰雲賞は尾形澄神先生(宮城・現代詩文書部)、候補最高賞の大賞には上田多恵子先生(大阪・漢字部)であった。

書道芸術院大賞・上田多恵子先生。受賞者を代表しての謝辞。



祝賀会、上位賞の壇上での一言。

この表彰式、レセプションその他の映像も「動画編」を予定している。



レセプションお開き、JR有楽町駅までの路が遠い。


SONYα55 SLT-A55Vの高速連写で見る高岡駅

2011-01-19 12:53:27 | 風景写真館
SONYα55 SLT-A55Vの高速連写で見る高岡駅

雪降る高岡、高岡大仏ぐらいは見てきたのだが、前日の「高岡なべ祭り」のテントが乱立して、あまり見る風情がない。
傘を差しての写真撮影ほど上手く行かないものはない。
その上、雪、逆光。
高岡大仏というのはどういうわけか北向き、鎌倉の大仏は南向きだったと思うし奈良東大寺の大仏も北向きではなかったはず。この辺はよく分からない。

いずにせよ、前日の晴れ間が時々見えるなべ祭りと違って17日は雪模様。
寒さという点では、間違いなく前橋の方が寒い。
それで雪が降っているから寒いと覚悟してきたら「おや」と思う気もする。
そんなこんなで列車を2本早めに高岡を出発して、越後湯沢に向かうことにした。
結果としては、列車「はくたか」は、約30分遅れ、また例のJR東日本のPCシステム故障で大分待たされることになったから早出は良かったのかも知れない。

そして、多少時間かあったので高岡駅で写真を撮ってみた。
ほくほく線「はくたか」が入線してきたので、10枚連写をしてみるものの、スピードを落としているからあっけなく撮れてしまう。

昔の、デジカメとは大違いというのはさすがSONYα55 SLT-A55Vと言うところだろう。


大寒波の中を行く富山・高岡行き(Cyber-Shot DSC-HX5V )

2011-01-17 19:17:14 | 風景写真館
大寒波の中を行く富山・高岡行き(Cyber-Shot DSC-HX5V )

この16日に富山県の高岡に行くことになった。
用事は単純にH先生の文部科学大臣賞受賞記念パーティに招かれたものである。
高岡というと大学時代に高岡出身の友人がいて、高岡というところはどんなところなのか興味を持ったまでである。その友人は、早世して今では何の縁もないものだが種々気になるというのはどういうわけなのか分からない。
そして、単純に「ほくほく線」という列車の旅が何か好きで、この冬の一時(いっとき)の列車の旅を楽しんでみるかという気分もあったからである。

それで、何か予感でもしたのかある程度早い便で切符を取ってあった。
かなりの寒波が来ている、大雪という報道から多少心配してはいたが3時間の余裕を取った。
高崎から新幹線でいつも上京する方向とは違う方向に乗る。何か変な気分というものの、突然トンネルに入り出れば全面銀世界である。
但し、天気は青空だからまだまだ水上まで来ていない。その水上の手前の上毛高原駅くらいから何やら怪しくなって、越後湯沢では大雪だった。

そしてアナウンスが言うのは、指定券を取ってある「はくたか6号」は運休していますと言うのだ。ほくほく線の改札で聞くと、そのまま大幅遅れている4号の自由席に乗って行ってくださいという。
はくたか4号‥‥あまり乗客がついていないなあ、これでよいのかという思いで2両に減っている自由席を探すと不思議と空いている。
「乗車次第発車します」というアナウンスがあるものの、なかなか出発しない。
‥‥すると次第に乗客が増え、後ろを見たら立錐の余地がないほどである。
こののろのろと進む特急は「はくたか6号」と同じ時間に出発した。
各駅停車の様な感じだったから、直江津までが遠かったこと。
そして、直江津あたりが相当の吹雪だった。

高岡に着いたのは13時45分。
予定より48分多く掛かったというものの、特急が魚津くらいまで普通列車並に各駅に止まったから仕方がない。
高岡駅で掲示板を見たら、後続の10号、12号も運休と言うことで危なく行き損なうところであった。

SONY α55
大凡聞くところによると次は、はくたか8号で二時間遅れの13時34分発だったらしい。これだったら16時30分ぐらいの高岡着らしかったので、間に合わなかったと言うものである。
この「ほくほく線」が大混雑だったのは、新潟から金沢へ行く列車が運休して、越後湯沢に回った人がいたという。動いているのは「ほくほく線」だけだったと言うことらしい。
それでも、予定時間を48分オーバーでも充分間に合ったから、3時30分開場というのに3時前には到着していた。
そこで聞いたのは、長野から、東京からなどの参加者が軒並み、間に合わない、行けないという連絡が入って参加を取りやめたことである。

越後湯沢ではくたか運休を見て諦めて帰ってしまった先生方。
そして新潟までの新幹線が一部運休したので、越後湯沢どころか新幹線にも乗らなかった先生。
それでも、I先生、A先生は2時間待って、その「はくたか8号」に乗って、4時開会の後宴会が始まった5時には間に合った。
しかし、大阪からのO会長は、雪を心配して早めに出たと言うので4時前に充分到着していたから流石である。
それにして、この冬に日帰りという考えの先生もいたそうだか、いろいろなのである。

11月の東京探訪(2010/11/23)と風景写真

2010-11-23 23:08:21 | 風景写真館

11月の東京探訪(2010/11/23)と風景写真

例年通りの上京なのだが1ヶ月半も東京へ行かないと、いろいろと「アレ」と思うことが多い。‥‥とは言っても、連休の合間だとか休日に上京することは年間でも希でほとんど平日。
この23日は、例年だと日展に行って半日潰すというのが恒例だった。
しかし、日展は六本木だし、日展第5科というのはいつ見ても同じ。‥‥というか、一種の社中展のようなものだから見ても勉強にもならない。
それで日展といえば日本画‥‥と東山魁夷画伯が健在の時はそれだけを目当てにと言うか、何か一つピリッとしたところがあった気がするのだが‥
日本画も最近は、あまり見る気がしなくなっては来ている。
群馬では、23日まで群馬県美術展が開催中で無理して見に行ってきた。
洋画の県展と言われるだけあって、洋画は大したものだった。
それは、一見素人が出品しているように見えて、実は美大出のセミプロの人達であったりして普通一般人では太刀打ち出来ないという部分が多い。
一方、日本画は教える先生が少ないし、高校で日本画を習うわけではないから純然たる素人ばかり。
洋画は、二科展審査員クラス他がズラリと並ぶ中で日本画は、日展、院展にも毎回入選出来ない人達が審査員という感じだからレベルの差は仕方がないと言うものだろう。

それは兎も角も、今回は日展ではなくわざわざ銀座まで出向いたのは「怖いもの見たさ」と言うものである。
いずれにせよ駆け足になったが、何を見に行ったのかはご想像にお任せする。
そんな中で銀座などは、平日と休日で歩いている人が全く違うと言う現象は何時も何時も妙だと思うものである。
平日の銀座というのは歩いている人も大方地味で、正直言って振り返るような美女に出会うこともない。
普通のビジネス街の雰囲気なのだが、休日ともなるとどこからとも無く見た事もない人達が集まる。近年は、有楽町にビックカメラが出来るくらいだから、昔と違ってラフな格好をしている人も珍しくない。

いずれにせよ、ここのところの10年と言うものは地方都市のランチタイムより銀座などの方が安いという珍現象は続いている。
秋葉原もアトレが完成して多少雰囲気が変わった感がある。まあアトレの社長は昔の同級生(小・中・高と同じ)だったが、桐生市の苛め自殺の学校の校長は高校の名簿を見てみたら同期だったりする。
今回も、上野精養軒での講演会の後レセプションがあった。

今日なぜか、おかわり自由というので貧乏性が昂(こう)じてランチをたらふく食べて、精養軒の宴会料理が食べられなかった。
そして、いつものことだが腹が満腹だと美味しいものも旨くないというのは困りものでもある。


佐賀・長崎旅行で見る今と昔

2010-10-26 00:03:00 | 風景写真館

佐賀・長崎旅行で見る今と昔

今回、佐賀と長崎に旅行へ行って来た。旅行と行っても、会議に出るためで結果として九州往復で1日、会議で半日で事実上動けたのは1日半である。
その1日半を三等分して佐賀と長崎そして軍艦島上陸と言うことになった。

佐賀、そして当然の事ながら軍艦島は初めだったが長崎は初めてではない。
多分20年前くらいになると思うが、福岡空港から九州入りして下関を往復してからどこへ泊まったかは覚えていないが、平戸に何日目かに泊まった。

そして3日目にはハウステンボスへ行ったはずだから、2日目に長崎観光をした。
長崎へ入るといつも急に雨が降り始めるというのが常で、何もない殺風景な平和公園の辺あたりから降り始めたと記憶する。


それが、大浦天主堂やグラバー園には小降りとなったような記憶がある。
しかし、今回は大浦天主堂から土砂降りの雨になった。これが午前中続いたのだから正にずぶ濡れであった。
それにしても、その昔大浦天主堂は何か細い路地を昇っていたら、あったように記憶する。しかし、今回見てみたら<なぁーに>、街の中心街から直ぐに昇ると門前町が出来ていた。
大浦天主堂の前もこんなに広かったかなという印象であった。
グラバー園の方は、いくらか妙な整備はされていたものの20年前と基本的に変わらない気がする。
その頃、グラバー園の時間(大凡3時間)があったとき、路面電車に乗って「思案橋」まで‥‥福砂屋の本店の黒い建物まで出かけた。

↑↑↑
この「4・正覚寺下」行きで思案橋に行きます。

今のようにインターネットで情報を仕入れる頃の話ではない。そこで細々と「カステラ」を買って来た事を覚えている。
但し、帰りの長崎空港に福砂屋の売店があって、ここで充分買えたというのはお笑いであった。
今では長崎空港の1階に独立した売店があり、東京でも通販でも手に入るからその他土産を買うというのも無駄なような気がする。

そして、2010/10/25届いたデパートからの案内葉書に特売として、福砂屋の「カステラ」が出ていたのにはのけ反った。
多分東京目黒の東京工場製でしょうけどね。


軍艦島に行って来ましたDSC-HX5Vで撮る動画

2010-10-24 22:39:48 | 風景写真館

軍艦島に行って来ましたDSC-HX5Vで撮る動画

九州・長崎県長崎市端島、通称「軍艦島(ぐんかんじま)」に行って来ました。
この軍艦島に行く前にYouTubeで軍艦島を探したら、実際の映像というものは余りありませんでした。
それで今回はサイバーショットDSC-HX5Vを使って、実際に上陸し歩いてみた映像を徐々に紹介したいと思います。


それで、出発直前にSDHCを買い増して言ったのですが、FH AVCHDは撮りませんでした。
その理由というのは、後で編集するときに物理的にSyuunのPCでは編集出来ないかも知れないという恐れを抱いてたからで‥‥

この軍艦島、上陸出来るのは年間でも100日程度でクルーズの船上でも上陸出来ない時は、周辺を廻るクルーズになりますとの説明もありました。
写真は、「マルベージャ3号」という遊覧船。
10月23日は海も凪いでいて風もなく、絶好の遊覧日より、上陸日和でした。

写真は、島の南側です。
西側から見ると軍艦によく似た格好になります。

頂上の四角い建物は、給水塔です。
今回、写真はそこそこに上陸、移動、そしてクルーズ等々動画を撮ってきました。
どのくらいの長さ、どのくらいの内容にするかは、時間とPCとの相談によります。

又、長崎も「龍馬伝」の影響を受けて、「まちなか龍馬館」というものをやっていました。
それにしても、20年前に行った長崎と何か随分と違ったような気がします。


SONYサイバーショットDSC-HX5Vによる夜景

2010-10-14 17:48:44 | 風景写真館
SONYサイバーショットDSC-HX5Vによる夜景

DSC-HX5Vの得意とするところというのは、言うまでもなく夜景だろうというので銀座と新宿の夜景を「手持ち夜景」で撮ってみた。
こういう夜景というのは、ペンタックスK100D(現在故障)が出た頃になって、デジカメ(一眼レフ)でも手持ちで撮れるようになった。

ペンタックス*istDの頃には、薄暗くなったらシャッターが切れなかったものなのである。
その後高感度に強いフジの100fdでも何とか撮れるとは言うものの手ぶれ補正が効かなかったか、無かった時代では思いもよらぬことであった。


「前高、高高定期戦」群馬県立高崎高校の現在の校舎、校庭は如何に

2010-09-12 00:28:08 | 風景写真館

前高、高高定期戦」群馬県立高崎高校の現在の校舎、校庭は如何に

2010/09/11、四十数年ぶりに群馬県立高崎高校の正門を通った。
高崎高校は、昔と同じ場所に一見大学のキャンパスではないかと思わせる広大な敷地と、年月を経た木々がその歴史を物語る。
それは、旧制高崎中学という今で言えば短大に相当する位置づけが感じられるのである。
一方、我が母校前橋高校は通った文京町の校舎は、前出のように生涯教育センターという意味不明な箱物に生まれ変わり、校舎は赤城の麓の方に移転したものの今や住宅街の中にある。
しかし、その場所の歴史の薄さと元の敷地から見れば広くなったとは言え、高崎高校の様に車で乗り入れられるほどのものではない。
未だに、校舎、敷地に至っては新制高校の枠から一歩も出でいないと言うのが前橋高校の雰囲気である。Dsc00557
さて、校門を見てみると「高前定期戦」という馬鹿デカイ品のない掲示がある。
昔の記憶によれば、前橋高校では「高前定期戦」などと言ったためしがなかった。
言うとすれば「前高、高高定期戦」、「定期戦」、「高高定期戦」である。
この定期戦は昔2年に一回だった記憶がある。
だからその「前高、高高定期戦」では、高校1年の時に高高に行ったのである。そして3年の時は、高高が前高に来た。
そのバスから見た高高生徒というのは、白い二本線の帽子を被り、足はゴム草履。
高崎駅まで歩いて行く生徒と言うのは、高崎近郊の山の中だからそんなものかと思ったものなのである。Dsc00551
今の校舎が出来る10年以上前は、木造の汚い校舎であちこち穴だらけ、ゴミだらけ。
要するに蹴り破ったという壁があちこちにあった。
職員室の前あたりを通ったら、何学年のだか忘れたが成績順の席次が全て張り出されていた。
ろくに授業など行わず、試験前になったら何十ページの先のページを指定して、「今度の試験はここまでだから自分で勉強しておくように」という出鱈目な教師ばかりだった前高とは大違いだった。
それで、試験結果を張り出したら「冗談じゃネーよ」とつるし上げを食うのが教師になる。いずれにせよ、前高と高高とは基本的に校風が違うというのは不思議なものなのである。そして、高高の校章は「亀の子」マークなのだが、昔はそれに二本線が入っていた校旗のこともあった。それは、帽子と同じスタイルのもので今では帽子も被らないから見ることはないだろう。Dsc00561
その二本線というのは、旧制前橋中学の第2分校を示すもので、「1897年3月 群馬、甘楽、碓井、利根、新田、多野の6分校が置かれる。」とある。
それが1900年から1912年にかけて
群馬‥‥高崎高校
甘楽‥‥富岡高校
新田‥‥太田高校・分離1900年。

碓井‥‥安中高校
多野‥‥藤岡高校・分離1901年
利根‥‥沼田高校・分離1912年  と言うわけである。
それで昔の話を聞くと、前中で落第すると高高へ転校、それでもダメだと太田へ転校。
いよいよダメだと沼田(分校)に転校して卒業したという話を聞くのであった。Dsc00555 

さて、その「前高、高高定期戦」。それは昭和42年の秋である。
TBSラジオ深夜放送の番組パックインミュージック。その木曜日深夜(1967,08-1982,07-野沢那智/白石冬美)ナチチャココンビの始まりの冒頭を飾ったのが「前高、高高定期戦」物語である。
ちなみに、文化放送の深夜番組「レモンちゃん」ことあの「落合恵子」、今ではTV朝日系の朝の番組で「砂かけ婆(すなかけばばあ)」のコスプレで有名だが、それは昭和45年以降である。Dsc00565
そこに投稿したのが当時1年で同級生だった小田君。
高高の校舎は観音山の麓にあって、当時はまだ整備されていない何やら鬱蒼とした雰囲気があった。前橋高校の正門の道路は当時としては珍しく完全舗装であったのに、高高の前、周辺は未舗装だったから余計に「山」を感じさせたのである。
それで高高の生徒を山猿と言ったかどうかは覚えていないが、相当カチンと来たはずなのである。
そして、それに対して高高の生徒がうまく反論出来ない。小田君の文章は褒め殺しも含めそれほど優れたものだった。
その深夜放送での「前高、高高定期戦」のヒートアップは激しく、高高では「小田を探せ」というなぶり殺しも辞さない雰囲気であったのは、同じクラスだからよく知っているのである。
そして、本来3学年で行う騎馬戦は、1学年だけで中止となった。
それでも多少の乱闘騒ぎで、腹を蹴られたとうちのウマの先頭(今は、某大学の教授)は言っていた。
当時の高高というのは、前高に比べ相当にバンカラが強く、紳士的ではなかった人物が少なからずいたと言うのは事実だろう。Dsc00559

その「前高、高高定期戦」では、そのアウェーで負け、前高が多少負け越したというのは良く覚えている。
その後のホームで勝ったものの、対戦成績今でも延々と前高が負け越している。
いずれにせよ、北大(北海道大学・当時国立一期)へ進学したはずの小田君の消息は知れない。
卒業名簿にも確かな消息は記されていない。
過去は遠くなりにけりなのである。


この夏の書道展、群馬創玄展

2010-08-28 23:14:21 | 風景写真館

この夏の書道展、群馬創玄展

ここのところの相変わらずの暑さにはへとへとになります。その昔、いくら暑くてもお盆を過ぎると涼しくなったものでした。
そうでなければ、お盆前後に台風が来てそのお陰で涼しくなったような事もありました。それで今日も夕方から展覧会に出かけて行くことになりました。出品している昔の知り合いの先生から案内状を頂いたので出かけて行くのですが、何時行ったら適当なのかと言うのが問題。
開催初日か最終日の終了直前かと迷うところとは言うものの、初日が一番良いのが当然。それでも、最終日は避けた方が良いかと言うところでした。Dsc00402
展覧会は、「第31回 群馬創玄展」平成22年8月27日から29日まで。
会場・群馬県民会館(ベイシア文化ホール)。
この県民会館、暫くぶりに行ってみると上の方に「Beisia」という赤いロゴマークがついているのに改めて気がつきました。
群馬創玄という名称は、元々創玄会という毎日書道展で主要な位置を占めるあの創玄会の系列なのだと思うものの良く分かりません。
毎日展に出品している人も多数いるのですが、正確なところは不明。
2010/08/28は、昼過ぎに急用があって結局夕方5時近くになってしまいました。Dsc00403_2
実際は、これが正解だったようで今日の終了間際に「祝賀会がある」と‥‥それで皆さん揃っていたワケね‥‥なのです。
だから、会場に着いたら「お姉様方」の「手招き・お呼び」があって、「なが~い」おしゃべりをすることになりました。
但し、こう言うのは嫌いでもありません。
何時ものことですから。Dsc00417

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