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書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

昔懐かし昔の母校の跡の無残

2010-08-27 19:10:35 | 風景写真館

昔懐かし昔の母校の跡の無残

2010/08/27は、群馬県生涯教育センターに行ってきた。
この場所は昔毎日通ったところなのだが、周囲の道路も建物も昔の面影もない。
それどころか群馬県生涯教育センターそのものが全く新しいものだから思い出に残るものもない。Dsc00389
元の建物が移転するときにモニュメント(記念碑)が建てられた。‥‥と言っても関係するのはそのモニュメントのミニレプリカがあるくらいなものなのである。
Dsc00382

ここで2010/08/27から3日間「第19回群馬篆刻協会展」が開催されている。
この群馬県生涯教育センターというのは、実は展示室というものが設けられていない。Dsc00391
かろうじてあるのは、ロビーの展示スペースと言うものの所詮エレベーターへ向かう通路である。Dsc00383
「生涯教育」という以上、その生涯教育を発表する上での発表の場というものを設けるべきと考えるのだが、当時の役所は「座学」による一斉授業しか思いつかなかったようだ。
そのロビーも今回は事情があって、写真展が行われていた。Dsc00401
篆刻協会展は、その右奥の通路部分である。
ここもギャラリーというらしかったが、群馬県の建物というのは常に「帯に短し襷(たすき)に長し」と言うものばかりなのはどういうことだろうか。Dsc00351_2

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 Dsc00366 Dsc00378 Dsc00379 Dsc00363_2
Cyber-shot DSC-HX5V にて全て撮影。


第62回毎日書道展 表彰式風景7月12日昼

2010-07-13 22:58:55 | 風景写真館
第62回毎日書道展 表彰式風景7月12日昼

第62回毎日書道展表彰式、レセプション。
今年は久々陳列日と重ならないので行ってみることにした。
その前段の田宮文平氏による特別記念講演会は前エントリーの通り。
講演会は、あまり深い内容まで立ち入らなかったと言うか多分説明しようがないのであろう。
12時30分受付の第62回毎日書道展表彰式と言うのだか、その時間に行ったら既に満杯状態。小生も会員賞をもらったわけでも無し、単に役員席で見物する立場。

いずれにせよ、モニターがなければ何をしているのか分からない様な大混雑。
毎日書道展表彰式は日本最大の書展であるためか、文部科学大臣も代理ではなくて大臣本人が来る格調高さ。

うちの方の県展では、ほとんど全て代理という何やら権威の失墜するような展覧会とは大違い。

会員賞の受賞は、すらりと並んだ受賞者に1人1人賞状を渡すと言うものの、これがうまい位置にいないと全く後ろ姿という感じになる。

公募最高賞の毎日賞もこれだけ多いと表彰式も流れ作業になりかねない。

それでも2時間半という長丁場なのである。
人の集中力の続くのが90分-1時間半であるから、皆15時近くなると息切れしてくる。ただU23の最後の方だと名前も呼ぶ時間が無くその場に立ってだから、有り難みも確かに薄れる。

そんなこんなで、のどが渇いてと思う頃に終了して、新館のクリスタルパレスでの宴会場。そこでは、既にビールも空いていて、ウェイターが酒類、飲み物を運んでいる。
レセプションが始まらないうちに飲み物の方は始まっていた。
レセプションの開始の4時が近づくと、写真撮影をしていた受賞者も集まってきて身動きできないくらいの有様。
挨拶、文部科学大臣賞の受賞者喜びの挨拶、毎日書道顕彰の先生方3名の挨拶など、宴会のウェイターの人が4人待ってくれ‥‥と

そして、乾杯。
乾杯と言っても、そばにはビールも飲み物もない。
但し、その乾杯という合図と共に食べ物の争奪戦が始まる。
寿司などは、凄まじいくらいに専用の箱にいれ、5分も経つと使われないで山と積まれた寿司の取り皿が何やら妙な感じ。
30分も経つと、中央の料理はなくなった。
廻り料理は余っていたが、その頃には欲張って食べたからお腹いっぱいなのである。
それで、ケーキは何とか人をかき分けてありついたが、フルーツはほとんど無くなり、他にどんなものがあったのか未確認のまま退出した。

毎日書道展 開催・陳列終了

2010-07-06 23:42:38 | 風景写真館
毎日書道展が2010/07/07午後から開催される。
それで2010/07/06は陳列だった。
今年は東京都美術館が改装中と言うことで、国立新美術館のみでの開催である。
それで変わったこと、それは全作品の陳列ではなくなったこと。
そして、新美術館での審査会員・会員の陳列期間が短くなったこと。そして今日分かったのは、会員でも二段陳列になったと言うことであった。
そして何だか分からないが種々の経費削減らしく妙な「省略」をしている。
その経費削減というのは昨年からなのである。
しかし、出品点数は減少していないかったように思えるのに、別の言い方をすれば収入は減っていないのに経費節減とはどういう事なのが良く分からない。
そして、陳列もいわゆる「お手伝いの人」をとうとう止めてしまったので、陳列委員だけ。
新美が出来る前の都美だけの頃は、「お手伝い」の社中の人達が陳列に参加したので、その手数料を兼ねて毎回宴会だった。
昨年は、都美のお休みと言うことで1回だけ「お疲れさま」があったのだが、今年はありそうもない。
実は、何時もそれを楽しみにしていたのだが、本当に寂しい気がする。
何と言ってもそのケチケチぶりは、3時のお茶ですよというもののそれは、お昼に余った350mlの生ぬるいペットボトル一本。
新美術館の第1回目陳列の頃はもっとマシだったような。

そして、今度の陳列委員を見ると結構見知った人がいない。
要するに新人が多い。
厳密に見れば、何時も陳列に出でいるベテランの先生は散逸されるのだが、陳列委員を増員したためか今回は、同じ階で知っている人は少なかった。
事実、一緒に作業した二人の先生は初めての陳列のようだった。
だから、種々の陳列手順を間違えたりするのだが、それでも結構スムーズに陳列が終えたのは、数少ないベテランの先生の奮闘努力によるものに感じる。
それにしても今年は都美がない分、結構陳列がきつい。
普通なら短時間である程度めどが付きそうなのに、中々収まらなかったのはやはり展示点数が多いからなのだろうと思う。
それにしても、陳列されている自分の作品を見ると「何時もならボツ(×)にする作品なのに」と思ったりする。
特に今年のできは良くなかったと感じる。

しかし、陳列日数も少ないし12日の毎日書道展表彰式の日が最終日で、翌13日が陳列だから遠くから来る人は少ない‥‥と思って納得なのである。

今年の会員賞その他の情報の聞いたが、いずれ会場へ行った時確認すればと陳列終了後そそくさと「乃木坂」に向かい。
新幹線の指定席券の時間も早めて帰ってきた。
1日700円と書かれた駐車場に車を止めてきたが、そこに入れたのは朝早くからみんなその駐車場へ向かう。
帰ってきて、駐車料金を精算したら「金」を払っている人などはいなかった。何と言ってもフィットネスクラブだからねぇ。

LABI1・TAKASAKIだったら平日1日600円だし、みんな少し遠くへ歩いて行くのは1日400円の駐車場があるのだという。
この辺も、デフレと駐車場の価格破壊が起きているなぁと感じるものであった。

実は、今回の陳列で怪我をした。
毎日の陳列部は掌握していないと思うが‥‥‥

それは、作品の入れ替えの時で作品を置いて振り返ったら、そこにアルミ額の先端があったというもの。
5㎝ほど切ったが、医者に行くほどの怪我でなし。
普通は、ある程度額を離して置くかするもので、直ぐ後ろに額を置かれれば怪我をする。
陳列が初めてな人が来ると、とんでもないことが起こることがある。

そういえば以前の陳列で、都美会場で同じような怪我をしたことがあったかも知れない。

寝台特急カシオペア ・北斗星

2010-02-12 14:46:45 | 風景写真館

寝台特急カシオペア ・北斗星
2月11日上野駅で、寝台特急カシオペア ・北斗星にであった。
上野~札幌間を結ぶ寝台特急、青函連絡船がある頃の寝台列車とは今は大違いとはJRのWebを見るとよく分かる。
昔は、通常の足だったのが今では観光列車というものだなぁ。
今回、この列車に気がついたのは、隣に新特急というローカル線が到着して列車の周りをカメラが取り巻いていたからである。
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今回丁度カメラを持っていたから、少し写してみたと言うのが今回。
聞くところででは、上野~金沢方面の寝台列車が新幹線の影響でなくなるとか。それでわざわざ寝台列車に乗って東京へで出来たと言っていた人がいた。
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山形・最上川舟下りと金山町の旅 5

2009-11-01 23:50:47 | 風景写真館

高速で行くバス旅行・東北・山形・最上川舟下りの旅 5

東北山形の旅も最終日10月17日、山形市のビジネスホテルを朝7時30分に出で新庄、そして「芭蕉ライン最上川舟下り」の古口へ向かう。
山形市も土曜日の朝だとほとんど人っ子一人いない。
前日泊まった仙台市と比べるのも酷というものだが、市街地というものが余り形成されていなくて、だだっ広い住居街の続きの様な感じである。
こう言うのは、一般的な地方都市の典型で群馬の都市も大方似たようなものである。
但し、県庁所在地としては人口25.5万人と言う事で関東から見れば小さい都市かなと思えたりする。
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それでか、泊まったあるホテルグループのビジネスホテルは色々妙なことが多かった。
それは、液晶テレビなのに地デジになっていなかったり、朝食が和定食で何やら口に合わなかったりと言うもの。
前日の晩の夕食は地下の「居酒屋」だったが、どうも余り美味しいとは感じなかった。
ビールも「生ビール」を頼んだがどうも「生ビール」かな?という味。
‥‥そう言うと、発泡酒でも混ぜてあるかもね??という話しだっが、真偽は不明。
翌朝の朝、バスは高速道に入り一路船着き場へと言うものの、山形市というのが盆地だと改めて思わせるものは、山越えをした事である。
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どこへ行くのか、こんな時は東北自動車道に乗った時、「HighwayWalker」という高速用のフリーペーパーを持ってきたのが便利だった。
バスがどんな道を通っているのか全く知らないと何やら不安になるのは性分だろうか。
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山形市では良い天気だったのが、山越えをするあたりから薄曇りになり、船着き場についても曇っていた。
9時発の船に乗ったら‥‥船頭さんは、この霧は最上川名物の「朝霧」ですと行っていたから納得。
1時間ほどで草薙温泉につき、「金山町」まで又バスで北上1時間。
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金山町というのは、街の景観を「切り妻屋根と白壁」で統一しようとしている街作りをしている。
白壁に木の柱型を見せるもので、都市部の防火地域では認められない壁なのだが‥‥と妙なことを思ったりして。
こういう冬は200cm以上も雪が積もる地域では、元々清流に縁があるらしく雪を流す排水路とそこを流れる清流というのは何か清々しい。
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小生の住む前橋市も元々は、各街路に利根川からの清流(?)が流れて、それこそ「水と緑と詩のまち」だったのだか、昭和40年代頃意味のない町名変更と共に側溝は全て暗渠に作り替えられてしまった。
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だから、今では夏の夕立の頃時として、マンホールのフタが飛んで、高台なのに都市水害が起きる。


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12時30には、「谷口がっこそば」
文字通り、元々学校であったところの校舎を使って、NPO法人がそばを出しているところで、土日営業。
食べた「そば三昧」というのは予約なのだそうな。‥‥大体1500円くらいだった。
到着した時には、観光パスが一台入っていて入れ替わりに出ていった。
その「そば三昧」というのは、そばの定食の様なもので結構分量が多かった。
バス旅行で何やら腹の具合が悪かった小生としては、後で結構辛かった感じがある。
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あとは、新庄まで南下して国道47号を東へ、そして宮城県の古川インターから東北道へ。
しかし、関東が近づくにつれて渋滞。
例の土日1,000円高速道路の影響だ。
それでも、何とか8時30までには帰り着いた。


群馬一番の伝統校も様変わりした・小学校の卒業式

2009-03-26 11:54:47 | 風景写真館
2009年3月24日は、住んでいる地域一斉の小学校卒業式だった。
紹介する小学校は、群馬県で一番早くできた伝統校である。
その名は、桃井小学校。

近年は、小学校への入学には「入学服」と言って、ブレザータイプの上下お揃いだったりする。
それも入学式しか着ないから全くもったいないものだ。
かといって、昔も白衿の付いた紺の服を着たような気がする。
そして、最近は「卒業服」というのがスーパーなどで売られていて、「なんちゃって」制服なのだ。
スーパーの卒業服は大方10000円前後で、あまり素材も良いものではなかったりする。
実際のところ、中学生になると制服があって体操着までそろえて、一揃いで90000円近くもする。
その伝統のある「ダサイ制服」に比べればかなり今風である。

卒業式は10時からなのだが、保護者は9時半から受け付け45分まで控え室で待つ。



この部屋というのは、コンピューター室なのだが富士通の直ぐにでも毀れそうな機種が並ぶ。
その上、キーボードはノート型パソコン配列のミニときているから面白いものだ。



さすが年度末の平日とあって、父親は数えるほどしかいない。



この写真は、卒業式が終わった後のもの。
良く「君が代」を歌わないとか、起立しないとかという報道があるが、別に違和感もなく最初に全員起立で「君が代」斉唱。
次に、校歌斉唱。



卒業式の後半に歌を歌ったのだが、何やら知らない様なもので「仰げば尊し‥‥」は歌わなかった。
但し、小学校では歌わないかもしれない。

それにしても、来賓祝辞に卒業生の鈴木貫太郎元総理の言葉ばかり(2回?)出で来る。
他の有名人もいるはずだから、何か無いのかと思ったりもする。
毎年使い回しの祝辞なのだろうね、新しい人が出で来ないのは。



卒業生42名。
その内転出3名、二つの中高一貫校へ各1名の2名。
どうと言うことはない、後の37名が同じ中学(1)へ進学する。
卒業生など、昔から見れば一クラス分だ。
それで、昭和32年に分離した「中央小学校」と近々統合されることになっている。
‥‥「中央小学校」は廃校。

小生頃は220人程度もいて三分の一は他の中学(3)へ、そして4%ぐらいが附属中学へ進学した。
本当に一生お別れになってしまった同級生も多い。
それに比べれば、大した感慨もないだろう。



卒業式が終わって、6年生は一旦教室に戻って12時過ぎにランドセルを背負って、校門を出る儀式がある。
それで本当の卒業というものだ。
それまで保護者は待っている。
そして、校門を出た6年生は、校門へ引き返すことなく裏門から校庭に入る。



自分たちの昔の卒業式はどうだったのだろうか。
本当はほとんど記憶がない。
その頃は、体育館など無かったから、大きな講堂と言うようなところに多分、クラスの代表が集まって貰ってきたと言うものだろう。何と言っても人数が多い。
そして、卒業証書は担任の先生から貰った。
だから、解散はクラスごとだ。
終わったところは、急に「ざわざわ」と賑わいが起き、そして静かになる。
うちのクラスはなぜか一番最後だった。
それは、先生が中々現れなくて卒業証書が貰えなかったのだ。



記憶に残っているのは、先生が校門まで送ってきて、一旦校門を出ろという。
古いタイプの先生だから、そして、戻るなと「厳命」する。
そしてほんの一瞬の別れを惜しんだのは、校門の外だった。
写真も撮るような時代ではないから、目に残るのは校門のところに立った同級生達。
そして、次々と姿を消す友達達。
そして最後に数人を残すのみとなって、自分も校門を後にした。
何と言っても、以後厳しい中学生活が待っていた。感慨に耽っているときではなかった時代だった。



それに比べれば、最近は感慨がない。裏門から入ってきて、全員の集合写真。
写真館のお姉さんがニコンのD200でバチバチ‥‥



女の子など、もう先生と身長も変わらないし、「なんちゃって制服」だからランドセルが妙に違和感がある。



但し、男の子は不思議とまだ幼い顔をした子供が多い。

お母さん方も先生と写真を撮ると言うのだが、何やら卑猥に感じるのは妙な気がする。
そして、4月以降も制服が違うだけで同じクラスになるかも知れないというものだ。



2009年3月25日の中学区域の防犯会議では、もう一つの中心部の小学校から30名前後(中高一貫校へ数名転出)と南部の新興団地の小学校から87名程度が同じ中学へ進学するという。
だから、中学1年生は凡そ155名の生徒数になる。



聞くところによると、その中学で過半を占める事になる小学校からの進学者に問題が多いという。
今日の会議でも、昨年一年間で「万引き」1件、その他小さな事件があったという。
その上、夏休みなど学校が休みになると、児童が一人で残されるような家庭が多いという。
昔は、そう言う児童を「鍵っ子」などと言って、決して珍しくなかったのだが、最近ではそう言う子が「悪さ」を覚えるらしい。

実際、中学の勉強という競争は既に始まっている。
春休みの春期講習というのは、学習塾にとって新中学生の囲い込みの時期。
だから、春期講習は「問題集」だけ又は、一切無料など言う学習塾は珍しくない。
半額程度の料金を取る学習塾は、小学校からの「特進クラス」中心のレベルが高いもの。
新たな新中学生はあまり必要としないと言うようなところだ。
そんなところは、よくよく見ればほとんど宣伝もしないし、入学パンフも遅い。

しかし、実際は子供と塾の相性というのがあって、ダメだった子供は一切の塾を辞めて通信教育にしたという事も聞く。
自分の昔を考えてみれば、塾に行っても先生は「解らなかったら質問しろ」。
それで、質問したら、「教科書をよく読め」だから話にならなかった。
もっとも、中学ではろくな塾がなかったから一般的な塾には行っていなかったが。

ほくほく線で行く富山

2009-03-22 22:41:38 | 風景写真館
この彼岸の時期に、富山に用事があって約6年振りに特急「はくたか」に乗った。
「はくたか」は北越急行の「683系はくたか」「スノーラビット(エクスプレス)」 (SRE)で 6年前に乗った車両とは雲泥の差だった。
前回乗った車両がどんなものだったか覚えていないが、何やらスピード感があって又トンネル内に入ると衝撃音が奔ったものだった。
それが、683系ではまるで新幹線の様にスムーズかつスピード感がない。



ウィキペディアで調べてみたら485系という昔の東海道線を走っていた車両のようだった。2005年に681・683系に運用車両が統一とあって、やはり新型だった。
「681・683系は在来線最速の160km/h運転が可能であり、681系は長大トンネルでの高速運転に対応して気密性や戸閉め装置の強化が図られている編成の限定運用となっている。また683系は「はくたか」使用車以外は160km/h対応は準備工事にとどめてある。」(ウィキペディア)



越後湯沢はスキー場の筈なのだが、もう彼岸なので雪がないのかという感じだった。
実際、雪を見たのはほとんどこの辺くらいから山間程度。昔、直江津などは豪雪地帯と言われたものだったが、今回見るところ雪の影形もなかった。



直江津では、快速列車というのが入線していたのだが、関東ではあまり見た事がない車両。
昔の特急だったのかなと思わせた。



関東では、新特急という快速並みに遅い特急など随分安っぽい車両だった。
今回の連休の合間の土曜日。
ほくほく線「はくたか4号」は、結構空いていた。
昔の何やら緊張感漂う列車の旅と言うより新型車両になったために、余裕、リラックスしたものだった。
それにしてもこの「はくたか」というのはのんびりしている。
湯沢から車両に乗るときに別に機械にキップを通すわけでもなく、又車内検札に来るわけでもない。
高崎線の新特急「あかぎ」だと停車駅ごとに何回も検札に来る。但し、ほとんど自由席なのだが。
そして、車内販売もありきたりのもの。
駅での停車時間は直江津で2分停車他1分停車で下りるわけに行かないところだ。
以前は、昼飯はどうしたものだろうかと考えている内に富山に着いてしまった。
富山駅は何やら改修工事をやっているようで、駅ビルの二階へ行けばそのまま行けるのは帰りの時に分かったが、工事現場の様なところを通って改札を出た。
それにしても、関東の様に機械での改札がないから何やら妙な感じだった。
富山駅は、改札付近はあまり変わらない気がしたが、6年前では土産物が1階だった。



それにしても、富山には路面電車があったのだっけと今頃気づいた。



昔、都電が走っていた頃の電車の音は大きかったが、今では静かなものだ。
都電が走っていた頃、東京の親戚の家に泊まりに行き、始発の路面電車が走り出すと目が覚めたものだった。


EU仕様の車両もあるようで‥‥それにしても連休の合間で車が少なかった。
そして、帰りは2009年3月22日の13時50分富山発のはくたか15号。
JR西日本の681系0番台「ホワイトウイング」 (WW)



彼岸の連休帰りに当たって、大混雑だった。

乗った車両は5号車。
土日の5号車は、指定席なのだがそれが分からなかった乗客が結構乗り込んできた。
だから、指定席車両の通路には指定席券を持たない乗客。
そして、空いている席には乗客が乗ってくるまで勝手に座る状態だった。
それにしても酷かったのは、6号車が喫煙席の自由席。
通路、デッキに人が鈴なりだったから6号車の煙が5号車に流れ込む始末。
これでは、禁煙席の意味がないと言うものだ。
そして、丁度小生の隣の席が空席だった。
空席なのは途中の駅から乗ってくる乗客がいるからなのだが、大きな旅行バックを持った爺様が勝手に座った。
座っている本人も停車駅ごとに座席を外してという何やら居心地の悪いものだったが、隣の小生も気になって居心地が悪い。
その席も1時間ほどしての直江津から女子大学生風の女の子が、小さな鞄一つで乗り込んで来た。
座るや否や、イヤホンをしてニンテンドーDSをし始めた。
ケーム内容は何だったのか、良く分からない。
その内「ポン、ポン」という打撃音の変わったかと思ったら、卓球になっていた。



直江津から北越急行ほくほく線に入るのだが、線路の音が違った。
要するに新幹線の音。
詳細を見たら、その様な高規格になっているとのこと。
これで160km/hが出せるわけだ。
とにもかくも、夕方4時近くに越後湯沢着。
終点で大勢降りるから大混雑。案内では16時04分の新幹線かあったのだが、乗れるはずもなく16時08分の「MAXたにがわ418号」。
それにしても、「駅すばあと」だと04分は出で来ない。
始発だから、何とか1階席の自由席で帰路に。
ちょっと席を立ってデッキに出で見たら、先ほど隣の席に座っていた女子学生らしき若い女性が佇んでいた。
今風の「決まった身なり」で、一瞬分からなかった。
今から又東京へ戻るのか‥‥‥
別に小生は女ではなかったが、あんな頃があった。
若かった遠い昔。
今こうした毎日を過ごしているなど当時は想像も出来なかった。
いずれ、夢破れて郷里に戻るようなことがなければと祈るのみである。

だるま市・前橋初市・風景写真

2009-01-09 22:25:43 | 風景写真館
群馬県前橋市の初市が開催された。
初市とは、通称「だるま市」と呼ばれて、高崎少林山のだるま市の後に行われるもの。例年は、2-30万人の人手があるはずなのだが、今年は朝8時頃から9時過ぎまで雪だった。
雪だからといって積もるわけではないのは、からっ風‥‥「赤城颪(おろし)」で有名な土地柄ゆえ。これでもし明日まで雪が続くと明日の朝は、全面凍結という事になるのだが、10時過ぎには雨になった。
それでも、小生などはスタッドレスタイヤに履き替えるという作業にここのところ明け暮れているのである。
別に雪が降るわけでもなく、山間部に出かけるわけでもないのに‥‥
さて、「だるま市」では、
「お炊きあげ」が例年10時30分から八幡宮で行われた。



ここで焼かれるのは、特別に大きなものばかりだったりするが、直ぐ裏に沢山のだるまなどが山になっている。
焼かれるのは、代表の一部言うわけ。
どうなるかというと、単に清掃車が来て片付けるという顛末。



この煙にあたると「無病息災」というのだそうだが、帰ってきたら不思議と手が線香臭かった。
手前のカメラは、ANN(朝日系)、奥のカメラは群馬テレビだった。


少し離れてみるとこんなもの。
小雨とは言え、カメラは濡れます。



雨で、お参りも少ないですね。
一方だるま市の方は、

テントでだるまが見えません。天気がよいときは、露天にだるまを出すので真っ赤が映えます。




やはり寒い。湯気が立っています。


普通は、この辺まで一杯なのに随分少ないです。反対方向は‥‥





中央通り商店街もこの有様。もっとも、普段はシャッター通りですが。

大きな本屋、この前では例年通りカレンダーを10-20-50%引きで売っていました。
昨年は、デジタル時計や小物、文房具もあったのですが今年は、DVDのみ。
最近は、ケヤキウォークという駅前のモールの「紀伊國屋書店」に押されているとか‥‥



国道50号の起点、17号との交差点付近。
通行止めをしています。
小生が子供の頃は、道の向こう側にも少しあった事もありました。
だるま市も年々小さくなります。

前橋市・水と緑と詩のまちが泣く・街路樹伐採

2008-11-17 16:05:00 | 風景写真館
11月も中旬になって、周りの木々の紅葉もだんだんと綺麗になった。特に今年は、赤や公孫樹(いちょう)の黄色には目を楽しませることもある。
結構小道など綺麗なものだ。
しかし、こういう広葉樹というものは、夏には木陰を作り、今散々言われている「二酸化炭素」吸収には効果がある。
そして、不思議なことに紅葉というのは、色々な場所で時期というものがある。
ところが、最近国道などの街路樹では紅葉が見られない。
なぜならば、10月下旬から木々の剪定に入り、紅葉して落ち葉が落ちる前に刈り取ってしまうからだ。
落ち葉が、下水路をふさぐという色々な理由があるのは確かだが、味気ないことだ。

ところが、そんな車が多く通らないようなところでも異変がおきていた。
それは、前橋市立図書館の駐車場だった。



驚くべき事に、あるはずの樹がない。
この場所の過去の写真を見てみれば明らかだろう。


この写真は、2003年12月に余りに綺麗だったので撮っておいたもの。
逆の方角から見ると。



この銀杏の木は、いつ頃からあったのか記憶がない。すくなとも20-30年以上前から同じ状態であったはず。
この駐車場が出来る前は「逓信病院」が戦後あって、その後空き地だったのだがその頃にあったのかも分からない。

そして、この銀杏の葉は、結構近所の人が掃いていたりするのだが、今や無残なことになってしまった。


切り株の後も新しい無残な銀杏の木。
これは、落葉する前に切ってしまおうという意図が見え見えだろう。これでは前橋市のキッャチフレーズ「水と緑と詩のまち」が泣くと言うものだ。





無残な切り株が並ぶ。




よく見れば分かるように、街路樹や木々が恐ろしく少ない。
そう言えば、群馬県庁の周りの樹齢100年を超える「厩橋城」からの木々を一時の行事のために一斉に切ってしまった。
それは、国民文化祭というのが、群馬県で行われたときで、そのイベント用に巨大スクリーンを設置するのに松の木が邪魔だったからであると言われる。
そして、一部を伐ると不自然と用もない全部の樹をきってしま伐ってしまった。
その時の小寺知事は、その後の5選を目指した知事選で落選し、その報いを得たが木々は戻らない。
小寺元知事などのように旧自治省出身の落下傘政治家は、地元の伝統文化を破壊するのが通例で、戦後は県庁のある場所の厩橋城の遺稿は徹底的に破壊された。

それにしても、小さな木々だと言っても、市民に楽しまれた樹を単なる役人の都合で伐採するというのは、前橋市というのは地球温暖化阻止を唄っていながら、実はそんなことは「関係ねぇ」という役所だと言うことがよく分かる。



そしてこの美しい風景は二度と見られないのである。
2003年12月2日撮影。

露出時間 : 1/125秒
レンズF値 : F4.9
ISO感度 : 100
Exifバージョン : 0220
オリジナル撮影日時 : 2003:12:02 10:01:33
対象物の明るさ : EV6.8
露光補正量 : EV0.0
開放F値 : F2.8
レンズの焦点距離 : 24.00(mm)


信州・上田・別所温泉・塩田平への旅

2008-10-20 19:48:29 | 風景写真館
10月18日、信州・上田・別所温泉・塩田平へ寄って善光寺へり旅に参加した。
秋と言えば紅葉といいながら、やはり11月にならないと紅葉と言うにはほど遠い。
だから、写真で見る限り夏の風景ではある。



朝8時の上信越道サービスエリア‥‥夏なら早朝という感じなのだが、夏の風景のよう。
バイクツーリングも多くいるが、遠くへ行くのならともかくバイクで朝から高速道路もないだろうと言う気がする。



別所温泉に着いて、坂道を昇ると「北向観音堂」。
観音様が北を向いている珍しいもの。
観音様というのは、必ず南か東向きというものが多いものだ。
書物によると、善光寺が南面しているので、北向きなのだそうな。
「厄除観音」の真骨頂というらしい。



観音様は、沢を階段で下りて、又登る上。ここには、何か土産物店が連ねる。



何かこういう観音様というのは、不思議と賽銭でもという気にさせる。
「別所温泉」というと、信州の鎌倉と書いてある。
単純に考えれば、何で京都じゃないんだと思うところ。
来歴を見れば、鎌倉幕府の執権北条泰時の弟重時が信濃の守護として、塩田に守護所を置いたことに寄るとある。
鎌倉・塩田を街道で結び、三代50余年治められたので、この地に鎌倉文化が根付いたところから「信州の鎌倉」なのだそうな。



今度は、観音堂の向かいの道から「安楽寺」へ。
国宝・安楽寺八角三重塔へ、拝観料300円。



寺の入り口の登りの方。


拝観料を払って、直ぐ登りの急登。上に見えるのが、三重塔。



四重の塔に見えるが、下の二段で一段分という塔塔を作るときの常套建築。
観光写真は、逆方向から順光で撮影されている。
山の上に昇ったのか、どうやって撮ったのか不明。
いずれにせよ、普通に撮るとこの様に逆行になる。



これが、本来昇ってくる階段。
昇るときは別の遊歩道からだった。
何かこの辺には、沢山お寺があるのだが、実は余りお寺周りというのは好きでないというのが本当のところ。今回は、時間の都合で次の常楽寺を参拝して善光寺に向かった。