あれは確か、国立研究所から大学へ転職したころだっただろうか?当時、奈良先端大の助手をされていた笠原先生と、奈良の喫茶店でレイコ(アイスコーヒーのこと)の飲んでいた時のこと。
「最近、衝撃的な内容の小説を読んだよ」と私。
「どんなの?」と笠原先生。
「森博嗣の<キシマ先生の静かな生活(The Silent World of Dr. Kishima)>なんだけれど」
「あっ、それ、僕も読んだよ。衝撃的な結末だったよね」
と、笠原先生とキシマ先生談義で盛り上がったことを良く覚えています。
『キシマ先生の静かな生活』(森博嗣)には、こんなくだりがあります。
それ以来、キシマ先生と会っていない。
先生は、昨年、大学を辞められた、と聞いている。まだ、四十七歳だ。
僕には、その理由がわかる。
先生は、助教授になって忙しくなり、気楽で自由な研究生活ができなくなったのだ。午後の時間を睡眠に使うことができなくなり、講義をしなくてはならなくなり、委員会や学会の運営もしなくてはならない立場に立たされたのだ。そんな、不自由な生活に、キシマ先生が我慢できるはずがない。僕にはそれがよくわかる。
僕はどうだろう・・・・・。
最近、研究をしているだろうか。勉強しているだろうか。そんな時間がどこにあるだろう。子供もできて、日曜日は家族サービスでつぶれてしまう。大学にいたって、つまらない仕事ばかりだ。人事のこと、報告書のこと、カリキュラムのこと、入学試験のこと、大学改革のこと、選挙、委員会、会議、そして、書類、書類、書類・・・・・。
いつから、僕は研究者をやめたのだろう。
一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいた、あの素敵な時間は、どこへいったのだろう?
キシマ先生と話した、あの壮大な、純粋な、綺麗な、解析モデルは、今は誰が考えているのだろう?
(中略)
キシマ先生だけは、今でも相変わらず、学問の王道を歩かれている、と僕は信じている。
(森博嗣著『まどろみ消去』講談社ノベルスより)
当時、研究所から大学へ移ったばかりでしたので、笠原さんも私も、小説の中の「僕」に同情的でした。そして、二人とも、「キシマ先生」への羨望を熱く語って、すっかりレイコが沸騰してしまいました。
私たち二人は、なぜだか、その10年後、テイオンケンにいます。二人とも大学の学部から大学の附置研究所への転職組です。今は、「僕」にも「キシマ先生」にも、ある程度共感は覚えていますが、懐疑的です。
大学の良さは、常に若い人たちとアイデアを出し合い、切磋琢磨しながら新しい価値を生み出していく場であることです。そこに、醍醐味があります。そして何よりも、研究者として成長して巣立った卒業生がそれぞれの分野で活躍していることが、私たちにとっては至福のことです。そう、思えるようになりました。
そして、研究においては、「言い訳をしない」ことが鍵!
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