団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★維新と革命のお話

2020年07月26日 | 日本再生

 明治維新と言えば日本人に取っては誇るべきものですが、日本人の劣化という面から見るとなかった方が良かったのじゃないかとも思えます。
  かと言って、あのまま西欧を撃退することは無理だったでしょうし、征服されていたら日本人は奴隷になっていたことも間違い無いでしょう。
  と言うことは、やはり明治維新は必然だったのでしょう。とは言え、それも日本だから出来たことであるのも間違いないでしょう。

  それでも、何故維新と呼ぶのかについては良く分かっていませんでした。

  ねずさんが、その維新の意味を詳しく書いてくれています。

  何時ものようにリンク元で全文を読んでください。日本の素晴らしさ有り難さが良く分かります。

  ねずさんの ひとりごとより     2020/7/19

  維新と革命の お話

  ・・・略
  なぜなら江戸時代の体制は、京の都に天皇(天子様)があり、その下に律令体制に基づく太政官があり、そのなかのひとつの役職として、将軍職が置かれ、その将軍が江戸で国家の政務を司っていたという体制です。
そして明治後は、その太政官が江戸に移り、その太政官の役職をそれまでの摂関家や徳川将軍、および全国の諸大名から、薩長の下級武士、並びに下級貴族であった岩倉具視らが受け持つことになったというものです。

 徳川政権が倒れて天皇政権が出来上がったわけではないのです。
もともと天皇のもとに政体があり、その政体だけが新しいものに変わったのです。
だから「維新(これあらた)」です。
つまり明治維新は、漢語的な意味における「革命」ではありません。

 さらに明治維新は、西洋的意味での革命(revolution)とも異なります。
なぜなら歴史がグルリと回転したわけでもないからです。
ちなみに西洋の市民革命における市民とは、政治を担うことができる特権階級の人達のことを言います。
 ギリシャ・ローマの時代から、人口の4〜5%の人たちがその特権階級で、残りは奴隷です。奴隷に政治権限はありません。・・・中略

 ところが明治維新を成した薩長の下級武士や下級貴族たちは、貴族政治、武家政治のどちらも否定し、四民平等としました。
そしてその後に行われた自由民権運動は、庶民の政治参加を求めるものでした。
つまり政治の形は、貴族や武家の手を離れて、天皇のもとで庶民の代表と公務員が行うという形へと変化したわけです。
これが「維新(これあらた)」です。・・・中略

 維新の推進力になった武士たちが、維新成立後に武士政権を打ち立てたというのなら、革命と言えるかもしれません。
けれど維新成立後に、その武士たちが武士の身分を捨てているのです。
これは、「欲得のために階級闘争を行う」というマルクス史観では、まったく説明がつかないことです。

 要するに明治維新は、チャイナの易姓革命でもなければ、西洋的意味での革命(revolution)でもないのです。
あくまで「厥政惟新(そのまつりごと、これあらたなり)」であって、これは同じひとつの国体の中における「政治の仕組みの根本的な変革」を意味します。

 明治維新は、私心を捨てて、公(おおやけ)のために尽くす武士たちによって実現されました。
けれど、その武士たちは、公(おおやけ)のために、自ら率先してその身分を捨てました。
これは、相当に民度が高くなければできることではありません。
なぜなら、誰しも欲があるからです。
そんな私欲を捨てることで、どこまでも公(おおやけ)に尽くす。
それは、世界史的にみれば、あるいは世界史の現実からみれば、ほとんど神に近い所業、人間の世界ではありえないといっていいほどの、すごいことであるのです。・・・以下略

 次世代のために私心を捨て、新たに日本を興す。
そういう政治と、それを支える国民が、いま、求められています。

 たとえばネットでいくら批判され中傷されても、まったく微動だにしない人
たちがいます。辻○○○や、菅○○とか、○○とかのです。
彼らの原動力は思想ではなくカネです。
それをすれば個人的利益につながり、儲かるからそれをしているのだそうです。
朝○もまた同じです。カネになるから中共の手先をしています。

 米国で中共の手先となっている人たちも同じです。
すべては個人の利得のために動いています。
何かの本質を知ろうとするなら「金の流れを追え」というのは、古来あたりまえのように言われてきたことです。

 しかし、そうではない人たちもいます。
英霊たちがそうでしたし、我が国の歴史に名を残す数多(あまた)の偉人たちです。
多くの同胞(はらから)のために(これを正義といいます)身を捨てて戦った人たちです。
身を捨ててかかるということは、私心を捨てるということです。
すでに自分が無になれば、何を言われようが、どう中傷されようが、捨てたもののことをとやかく言われても、まったく動じる必要もない。

 日本という国は、そういう人たちによって支えられ、歴史がつむがれてきた国です。
そういう人たちのことを、志をもった武士、という意味で志士といいます。

 日本の日本人のすべてが立ち上がるというのは幻想かもしれません。
けれど志士が立ち上がることは、可能なことです。
それこそがいまの日本に、そして世界に求められていることなのではないかと思います。



  やはり、日本人は凄かった。とは言え、今維新の志士が立ち上がるのか不安です。大阪あたりで名乗っている正しい国家観も歴史観も持ち合わせていない人達は違うでしょう。


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