団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★侵攻され、同胞が拉致されたら、古代の貴族でも戦ったのだ

2022年12月27日 | 拉致問題

 

拉致被害者を未だに取り返すことも出来ない日本人程世界に対する恥であることも自覚出来ない今の日本人は本当に情けない。

  先人は、「刀伊の入寇」の時代からここまで劣化した事に怒りしか無いですね。

  宮崎さんが教えてくれています。宮崎さんの怒りが伝わります。憲法を変えることもしない完全に劣化した日本人が蘇ることはあるのでしょうか。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より   令和四年(2022)12月22(木曜日) 通巻第7561号  <前日発行>

  侵攻され、同胞が拉致されたら、古代の貴族でも戦ったのだ
   女真族海賊の「刀伊の入寇」撃退の教訓

 北朝鮮はじゃかすか日本海へ向けてミサイルを発射している。拉致被害者を返還するどころか、生死の調査さえ拒んで、核武装に余念が無い。この現状をみるにつけ筆者が或る歴史上の事件を思い出すのである。

 寛仁三年(1019年)、大事件が起きた。「刀伊の入寇」である。
 女真族が主体の強盗海賊集団が壱岐・対馬を襲い、北九州に侵攻した(刀伊は高麗語で夷狄を意味する)。海賊船は五十隻、とくに対馬では島民36人が殺害され、346人が拉致された。

 北朝鮮の日本人拉致事件を彷彿させるが、藤原政権はこのとき武力で対抗し反撃に出た。
 女真族は十二世紀に「金」を建国した。十七世紀には満洲族として後金を、やがて清王朝の中核を形成する。
七世紀に阿倍比羅夫が退治した佐渡、東北から北海道にかけての粛清(みしはせ)も女真族の流れとされる。

 当時、女真族の一部が高麗へ朝貢していた事実がある。女真族は部族的な小国家群をなして十一世紀初めから海賊行為を繰り返していた。このため新羅、高麗 も襲われ多くが拉致されていたらしい。日本側に捕らわれた捕虜三名は高麗人だった。藤原実資の『小右記』では海賊のなかに新羅人もいたと記している。

 壱岐への襲撃では老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い尽くした。国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに賊徒征伐に向かうが、大集団に敵わず玉砕した。

 壱岐の島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。
 さらに海賊団は筑前国の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲った。伊都國として魏志倭人伝にでてくる地域で、白村江の海戦に敗れた折に、太宰府の前面に水城を構築し、博多から伊都にかけては長大な防塁を築いていた。

 大宰権帥、藤原隆家と前小監の大蔵種材らが奮戦し、海賊団を撃退した。防備の不意を突かれたかたちになった。海賊団は帰路に寄り道した松浦で返り討ちにあった。松浦海賊集団の嚆矢となった荒武者がいたのだ。

 海賊集団はなおも、帰路に高麗沿岸を襲撃した。たびたび女真族に襲われていた経験から待ち構えた高麗水軍が撃退し、拉致された日本人およそ三百名が保護され、日本に返された。

 ときの政府、最高権力者は藤原道長である。しかし藤原道長は持病を幾つも抱えて、政務を右大将の実資や息子の頼通らに任せ、すっかり仏教に帰依していた。
 廟議は武勲のあった藤原隆家らを賞し、位階をあげた。まさに「栄誉で繋げ菊と刀」の時代だった(ただし後世の栄華物語や大鏡では藤原隆家は賞には預かれず、目を病んでいたため唐人医師の治療を希望し自ら太宰府勤務を望んだとする説がある)。

 ともかく侵攻されたら戦う、同胞が拉致されたら武力で取り返す。その原則は貫徹されたと言えるだろう。
この刀伊の入寇を現代日本人の殆どが知らない。

 治安二年(1022)、道長は法成寺造営に没頭し、平城京の興福寺に擬して、諸国に賦役の動員をかけたため評判が悪かった。帝が法成寺に臨光され、落成した。弐年後、道長は薨じた。

  この事実を教えない今の教育こそが日本人をここまで劣化させたことは間違い無い。
  それでも教育改正に手をつけない政府・自民党・教育界は日本の消滅こそを目指しているとしか思えません。こんなことを何時まで許しておくのですか。
  詰まりは日本の消滅を期待していると言うことでしょう。何とも哀れで情けない。


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