今回のオウムの件で、何時ものねずさんが興味深い考えを書いてくれています。何と、ニューヨークタイムズへの拉致問題広告で、被害者の味方を装ってまんまと大勢の国民を欺いたあの今や国会議員になっている男の正体を書いてくれています。
あの変化に戸惑っていた私も、これで納得が行きました。
何時ものように、全文をリンク元で是非読んでください。
大和心を語る ねずさんのひとりごとより 2018年07月08日
実は宗教問題に「すり替えられた」オウム事件
…略
オウム事件の死刑囚への死刑が実行されました。
この件について、良かったと思うことがひとつ、気がかりがひとつあります。
良かったと思うのは、この件に関連して、かつてさかんに行われた「死刑廃止論」がメディアにほとんど出てこないことです。
さすがの汚鮮メディアであっても、オウム事件について「死刑はいかがなものか」とは言いづらいのでしょう。
逆に言えば、死刑廃止論というものが、もとをたどせば日本を乗っ取ろうとしていた一部の少数のかつての共産パルチザンたちにとって、仲間が処刑されることが許せないという、ただそれだけのものでしかなかったということです。
彼らの元いた国は、厳罰主義です。
犯罪者に対しては、たとえそれが政治犯であったとしても、いっさいの容赦はない。
徹底的に人間性を否定され、毎日のように暴行を受け、挙げ句処刑されるのが常識でした。
ところが、大陸や半島、済州島などで暴れまわった後に逃げてきた先の日本では、日本人は占領下に置かれて、武術も自警団も禁止されているし、もともと民度の高い日本では、厳罰さえも行われない。
犯罪集団にとって、これほど居心地の良い国はないし、仲間が捕らえられたら、死刑廃止、暴力反対、人道主義などと綺麗事を言うと、良心的な日本人は、すぐに騙されてそれに賛同してくれる。
戦後70年間、彼らはこの手口で、好き放題に日本を汚鮮してきたわけです。
けれどもこのオウムの事件では、上川陽子法務大臣の決断によって、見事に死刑が執行され、日本の司法の凄みを見せつけました。…中略
ふたつ目の「気がかりなこと」というのは、相変わらずオウム事件が「宗教問題にすり替えられている」という点です。
オウムの麻原こと松本某が、怪しげな宗教団体を作って、信者に寄進をさせて個人的利得を図ったことは事実です。
オウム事件のあと、教団が分裂し、3つの教団に別れていますが、彼らにはすでに日本を武力闘争によって転覆させるだけの戦力も力も資金もありません。
もちろん公安警察によって監視を続けることは必要でしょうし、わが町に彼らの教団施設がやってくるとなれば、もちろん大反対ですけれど、最大の問題は、オウムが何を教え、何を信じる教団であったかにあるのではなくて、彼らが自己の目的を遂げるために、無差別殺人を行っただけでなく、毒ガスやミサイル、挙げ句は戦車やヘリコプターまで準備して、武力闘争によって日本国家の転覆を図ろうとしていことによります。
つまり、オウムの問題は、その宗教性にあるのではなくて、彼らが松本智津夫の命ずるままに破壊活動を展開しようとし、その一部を成功させて人の命を奪ってきた点にあります。
最終的にオウム事件では、彼らが大規模な破壊活動を展開する前に、強制捜査が入り、幹部を一斉逮捕し、また彼らの武装をことごとく取り上げることに成功しましたが、このように、あらかじめ武器や兵器を隠し持って、武力革命を標榜するような集団は、実は、オウム以外にもあるわけです。
ところがオウム事件当時、某ジャーナリストの男性が、しきりにメディアに登場して、オウムの宗教性をさかんに強調していました。
その男性は、いまや国会議員となって、反日主義であることを隠さなくなりましたが、要するに彼らは、仲間のオウムがヤバイとなったときに、逆にオウムを攻撃する側に回って、兎にも角にも「破壊活動を準備する暴力集団そのものを規制しなければならない」という論調にならないように、オウムの宗教性だけに世論を誘導したわけです。
おかげでいまもなお、本来議論となるべき、
「暴力を前提に破壊活動を目論む集団は凶行に走る前に根絶やしにしなければならない」
という議論が、いまだにまったく行われていません。…以下略
成る程、これなら奴の変身も理解で来ます。突然メディアに現れたのも組んでいたからだと今なら理解で来ます。
反日売国左翼・在日共の悪がしこさに、今更ながら恐ろしくなります。何と言っても、当時はネットが始まった頃だったので、まだまだ平和ボケから目覚めて無い頃でした。
それにしても、日本の国会には「日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人でない者」がどれ程潜りこんでいるのやら。何とも、恐ろしい。
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