団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★★履き違えられた権利意識とは

2018年10月18日 | 素晴らしい日本語

  ポリティカル・コレクトネスという左翼の得意な「レッテル貼り」が、生き難い世界を作りあげてきたことに流石にこれは行き過ぎだろうという反論も出てくるようになりました。これも、グローバリズムとナショナリズムの戦いに一環とも言えそうです。

  日本では、その上に言葉による原因が大きいようです。それは、「権利」なる言葉です。明治の方達の素晴らしい仕事で外国語を日本語に訳してくれたことで多大な恩恵を受けていますが、中には、問題のある訳が一人歩きして大変な問題を起こすことになったようです。その代表的なものが「権利」という言葉のようです。

  この「権利」という言葉について、何時ものねずさんが何度も取り上げてくれています。言葉の恐ろしさを改めて認識させてくれます。

  何時も以上に長文なので、是非全文をリンク元で読んでください。

   ねずさん のひとりごとよ り     2018年10月13日

   履 き違えられた権利意識とは

  ある日のテレビ討論の番組でのことです。
売春をしていた女子中学生が他の出演者から責められていました。
ところがこの女子中学生、周囲から何を言われても、キョトンとしていました。
そしてこの女子中学生に発言の番が回ってきたとき、彼女が言ったのが、
「で、あたし、誰か、人に迷惑かけた?
 誰か被害受けた人いるの?
 いないでしょ?
 私が何をしようが私の勝手じゃん。
 私にだって権利があるんだから!」

彼女のこの言葉に、それまで彼女を責め立てていた周囲の者は、誰も言い返せません。
1分間くらいの沈黙が続いたそうです。
しかたなく番組は、コマーシャルに切り替えました。

さて。みなさんなら、この中学生に何と言い返しますか?

このお話は、戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏先生が引き合いに出されたお話です。
戸塚先生は、この例え話をひいて、そもそも「権利」という言葉が誤訳であると指摘されました。
そこからすべて、こうした間違いが起こっているというのです。

 どういうことかというと、「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。
西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才です。
文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いまし た。
藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語で す。

 彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。
「たとえば英語の『philosophy(哲学)』を、
 『フィロソフィー』とカタカナ語で用いるのではなく、
 翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
 なぜそうするかといえば、
 外国語を外国語のまま紹介したのでは、
 専門の学者にはそれでいいかもしれないが、
 その心とする語彙が広く世間に普及しない。
 欧米の概念は欧米の言葉で学ぶだけでなく、
 その意味や意図を、
 我が日本のものとしていかなければならない」

 これはまさにその通りだと思います。
「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「読解力と記述力」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだ り書いたりできる能力を指すということがわかるし、ネットリテラシーというのではなく、電子情報の読解力と記述力と書けば、 ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが、より理解しやすくなります。

 西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けました。
そしてその西周が、英語の「Right」を翻訳した言葉が「権利」だったのです。

 ところが、この「権利」という翻訳語に、福沢諭吉が噛み付いています。
「誤訳だ!」というのです。
そして福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
「『Right』は
 『通理』か『通義』と訳すべきで、
 『権利』と訳したならば、
 必ず未来に禍根を残す」
と指摘しています。

 なぜ、福沢諭吉が、そこまで厳しく噛み付いたのかには理由があります。

 第一に「権利」は能動的ですが、「Right」が受動的な力であることです。
「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。

 「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になり ます。
けれど英語の「Right」にそのような意味はありません。
一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても正当であり妥当なものが「Right」なので す。

 要するに、
「そのリンゴはお前が食べたのだろ?
 みんながお前が食べるところを見ていたんだ。
 間違いないよな。
 そのことはRight(間違いない)よな?」
というように使われるのが「Right」です。
誰も「お前がそのリンゴを好き勝手に食べて良い」などと言ってないのです。

 ところがその「Right」を「権利」と訳すと、
「俺がリンゴを食べたのは俺の権利だ。
 リンゴは俺に食べられるために存在したのだ」
という理屈が成り立ってしまうのです。
これは明らかに誤訳というべきです。

 もうひとつ、「Right」には「正義」という意味が含まれますが、「権利」という翻訳語にはその意味が含まれていないこと です。
要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」です。

 人のリンゴを勝手に食べておいて、
「あのリンゴは俺に食べられるためにあったのだ」
などと言っても、それは正義の名に値しません。
しかし「権利」だと、リンゴを泥棒した犯人が、
「リンゴは俺に食べられるためにあったのだ。
 それは俺の権利なのだ」
という言い方ができてしまうのです。

 ですから「権利」だと、お父さんが仕事上の都合でどうしてもパソコンを使いたいのに、子供がパソコンでゲームをしたいといえ ば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがパソコンを奪えば、それは子供の権利の侵害にあたり、親によるパワハラだな どという、もっともらしい「間違い」が起こってしまうのです。
要するにただのワガママが「権利」になってしまう。
なぜそのような間違いが起こるかと言えば、日本語の「権利」に、正義の概念が含まれていないからです。…以下略

  これを予測した福沢諭吉も凄いですね。どうせなら徹底的に反対して変えてくれていたら良かったのですが、不可能だったのでしょうか。
 
  それにしても、言葉一つでここまで日本人が劣化したことを考えると恐ろしいですね。これを変えることは出来ないのでしょうか。
  もし変えようとすると、「権利、権利」と叫んで反対する人達が沸いてきて叩き潰されるのじゃないでしょうか。
  人間って本当に面倒くさいですね。やはり、人類は滅びるしかないのかも。尤も、その方が地球は平和で良いのかも。



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