▼ 2014年5月21日、福井地裁は大飯原発3・4号機の運転差し止めを認める歴史的な判決を行い、我が国の原子力政策に一石を投じた。その時と同じ樋口英明裁判長が、昨日、今年2月に高浜原発3・4号機に出した原子力規制委員会の新基準審査を、安全とはいえないとし、運転禁止の仮処分を言い渡した。これにより高浜3・4号機は、次の裁判で判決が覆されない限り、全てがストップになる。
▼ 原発問題は、福島第一原発事故後、司法の判断にも大きな影響を与えている。昨年の大飯原発での判決は「15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難で少なくとも入院患者60名が命を失っている。大きな自然災害や戦争以外で、生命を守り生活するという根源的な権利が、極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは、原子力発電所の事故のほかは想定しがたい。具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である」とした。
▼ 福島の事故前の、女川原発一審判決に関わった塚原朋一裁判官は、事故後こう述べている。「当時は科学技術には多かれ少なかれ危険はともなうもので、これを否定して原発に絶対的安全を求めることは非科学的であるといった判断があった。しかし、それは当時の私の社会観念です。私はこれについて反省する気持ちがあります。当時の私の感覚は相対的なもので、今後、女川一審判決を前提とするような判断の枠組みを用いることは、時代錯誤になるだろう」と発言している。
▼ 昨日の高浜原発の判決は、世界最高の厳しい基準と政府や規制委員会が豪語する新基準を、真っ向から合理性に欠くと判断した。つまり欠陥だらけの基準ということだ。規制委員会は「顔をつぶされた」というところだ。我が国の原子力研究の最高権威者と自負した斑目氏の発言を借りるなら、規制委員会の田中委員長も「私っていったい何なのでしょう」といいたい気分に違いない。菅官房長官の談話も、沖縄の基地問題での反省の色がまったくない。「世界で最も厳しい基準なので“粛々”と行いたい」と、また、禁止用語の伝家の宝刀“粛々”を抜いてしまった。菅さんにとって「粛々」とは、象の足で蟻を踏み潰すぐらいの意味なのだろう。
▼ 裁判内容については新聞に詳しく出ているので、粛々と塾読して欲しい?!。私は単純にこう喜んでいる。関西電力が、裁判長の交代を請求しているというが、その前に関電社長の交代のほうが先ではないか。判決に慌てふためき、関電だけに、本社ビル自体が感電しているに違いない。いや、もしかして、関電の上層部は放電状態かもしれない。
▼ 函館市町会連合会・大間原発反対実行委員会事務局長の私は、この程度の喜びようだ。だが、内心では相当喜んでいるのだ。昨日の高浜原発の原告弁護団は、函館市の大間原発裁判の河合弁護士たちだからだ。河合氏の言葉を思い出した。「原発裁判は相手が嫌がることをしつこく追求することだ」と。
▼ 市町会連合会の会長さんたちは、高齢者が多い。総じて、市長や国会議員や経済産業省に対しては、失礼に当たらぬようにという、常識のブレーキが効いているようだ。それでは戦いにならぬという、若干、若手会長の意見の対立もある。裁判官でも、福島原発以後は考え方を変えた。正しいことを実行する勇気を、今回の裁判長は国民に知らしめたのだ。この勇気を国民全体が共有し、脱原発の国家をめざしたいものだ。
▼ 今回の判決も前回の判決同様、原発エネルギーという経済行為より、国民の人格権・生命権が勝っているという、実に正義感溢れる人道的判決だ。一方、安保法制をめぐり自公が勝手に動き出している。裁判官も考え直したのだから、内閣法制局も自らも反省し、憲法解釈の拡大解釈は違法だと従来の正しい判断に戻してもらいたいものだ。
▼ それにしても、知事選の前にこの判決が出ると、相当影響があったに違いないと思う。私たち町会連合会も、昨年12月1日から反対署名運動を開始する予定でいたが、突然の衆議員選挙で、終了後に開始してしまった。今考えれば「自主規制」してしまったのだ。もし、実施していたら、相当影響を与えていたに違いないと思っている。
▼なんだかんだと喜びすぎて、ついついおしゃべりが過ぎてしまったことをお詫びしたい。市町連、次回の原発反対運動作戦会議は5月1日だ。戦いに弾みがつくだろう。作戦テーマは「相手が嫌がることを」だ。だが、これがまた問題になる、函館市町会連合会だけど。