函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

アベ総理がかわいそうだ

2015年04月22日 10時31分46秒 | えいこう語る

▼ 戦後70年の談話の内容を聞かれ、アベ総理は村山総理以来の歴代総理の謝罪内容を踏襲するが、文言は変えると言い出した。だが、書き込まれていないものを納得させるとは無理な話だ。我が国の戦後談話は、侵略した国との「平和契約書」のようなものだ。お互いが納得のいく文言でなければ、謝罪していないということになる。

▼ 過去の侵略は十分謝罪しているとし、自分流の積極的平和主義を誇示するらしい。周辺事態を取り払い、世界中に自衛隊を出動させ、武器を持たせテロとの戦いに望む国にするというアベ的積極平和主義は、我が国でも国民が理解できていないことなのに、過去に侵略された国が承知するわけがない。友好関係を破棄するという、絶交宣言をするようなものだ。

▼ 外交とは仲良くすることだ。敵を作っては外交能力がないといわれるに等しい。武器を持って自国の権益を守るなどというのは、過去の戦争の惨劇から、何も学んでいないということになる。ナチスのNO2と言われたヘルマン・ゲーリングは、ニュールンベルグ裁判で「他国から攻撃されていると国民の危機を煽れば、戦争は簡単に起きる」というようなことを述べている。

▼ アベ総理は、他国が攻めてくるかもしれないので、軍事力を強化しなければならないと考えているようだ。さらに、日本国憲法の解釈にいたっては、米国に強制されたもので「日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった」と、理解しているようだ。こんな理解力であるから「海外で活躍している日本人に、テロリストが日本人に手をかけると国家が黙っていないという姿勢を国家が見せることは、海外における日本人の経済活動を守ることにつながる」とまで言及している。

▼ ここまで強い決心を持っているのだから、イスラム国に屈せず、わずかの犠牲者を出すぐらいは、国益に叶っているという判断なのだろう。ここに、アベ総理の靖国史観が見えてくる。「今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている。確かに自分の命は大切なものであるが、しかし、時にはそれをなげうって、守るべき価値が存在するのだ」ともいう。

▼ このような歴史観であれば、過去に我が国に侵略された国々へ、謝罪する気持ちなどさらさらないと受け止められはしないか。「過去に目をつむるものは、未来において盲目になる」というドイツだが「過去の反省なく、積極的平和主義のみ唱える国家は、再び被爆国になる」。これは、我が国の元同盟国総督ヒットラーが、草葉の陰からシンゾー総督閣下に投げかけている言葉のように思う。

▼ さらにアベ総理は、国民にこう告げる。「公害訴訟など、過去の国の失策を追及する国家賠償請求訴訟において、原告が勝訴すると国に勝ったと喝采するが,国家賠償費用は国民の税金が支払われている。納税者に対する責任が厳しく問われているのだ」と。国策に反する者に忠告とも取れるこの発言は、大間原発建設反対を求める私たち函館市民の心にも、ぐさりと釘を刺してはいないだろうか。アベ総理著の「美しい国へ」という中で、総理はこのようなことを考え方でいるのだ。まもなく訪米し、オバマ大統領にも、戦後70年の談話について聞かれるだろう。中国の台頭に危機感を持つ米国は、一体どう判断するのだろうか。

▼ 日米安全保障条約を、アベ総理は祖父から「安保条約には、日本と米国の間で経済協力を促進させる条約でもある」と言われたそうだ。日米安保条約第2条「締結国はその国際経済政策における食い違いを除くことに務め、また、両国の間の経済協力を促進する」とある。私たち国民は、安保は単なる軍事同盟だと思っていたのだが。

▼ 米軍の沖縄基地の移設が、沖縄県民の反対で足踏みしている。戦後70年の談話を米国が支持する。その代わりに、日本はTPPの米国の主張を、最終的に呑む。そんなことが、国民の知らぬところで話し合われているというような、昨夜の私の夢だった。

▼アベ総理は、国民を守るために積極的平和主義なるものを、自らの責任で実行しようとする。私はそこまで責任を追う必要がないと思う。また、身体と精神を病んで退陣することになるからだ。そんな意味で、私は戦後70年を一人で総括しようとするアベ総理が,かわいそうだと思っている。著書を読んで、総理でなければ、いい人に違いないと思っているからだ。