▼ 昨夜読んだ本の中に「イソップ物語」に関する記述がある。人間が神様に、他の動物には翼や速い足を贈ったのに、裸のままで置かれた人間には、何も与えなかったのかと尋ねた時「お前たちには一番大きな贈り物をしてやったはずだ。お前は理性を持っているではないか。それは他のどんな贈り物より力のあるものなのだ」。
▼ この解釈は、すべての人間は神からこんないい贈り物をもらっているのに、ある人はそれに気が付かず、むしろ捨てているのではないかと。イソップ物語の多くはは「身のほど」について、語っているのではないかという。さらに、毎日の新聞を埋め尽くしている様々な出来事、それにイソップの寓話を当てはめてみると、2千年以上も前に作られたのに、現在にも立派に通用する智恵の書であることに気付くのではないか、とも。
▼ さて、2月3日の北海道新聞のトップ。「首相、9条改正に意欲」だ。イソップ流に解釈すると、アベ総理は「身のほど」知らずだ。最高の贈り物とされる「理性」を、まったく自覚していないのだ。
▼ 「日本国憲法第九条」は、人類が神の意思に反し、殺戮を重ねたことに反省し、理性を取り戻し、二度と再び戦争は起さないと誓った叡智の結集である。それをいとも簡単に捨て去るというのは「身のほど」知らずにもほどがある、のではないかと私は激怒する。
▼ イスラム国人質事件の後藤健二さんは、イスラム国潜入の前に「責任は私にある」と明言した。潜入自体「身のほど」知らずに違いない。だが、彼は友人を救うのは自分しかいないと、死も覚悟の決意をしたのだ。九条を改正し、戦う国にして大勢の犠牲者を出す。さてアベ総理は「責任はすべて私にある」というのだろうか。そうではあるまい。
▼ 「われわれは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と、憲法を自分勝手に解釈し、公言するに違いない。
▼ 総理のおじいさんも、A級戦犯を免れ総理になり「日米安保条約」を締結し、再び戦う国への布石を打ったのだ。どうやら「身のほど」のわきまえない家系のようだ。
▼ さて、イソップ物語から。「安全な高い場所にいる山羊が、その下を通った狼に悪口をさんざんあびせた。すると狼はこういいました。そんなふうにオレの悪口を言っているのはお前じゃない。お前のいる場所だ」。
▼ 組織人といわれる現代人。とかく組織の中の自分を本来の自分と錯覚しがちだ。組織に組み込まれた役割としての人間になりきってしまい、その挙句、人間としての役割を忘れてしまうのだ。「九条改正」など、この山羊の話と同じではないか。総理という場所がそういわせているのだ。イソップ物語が理解できないなら「チャップリンの演説」をお勧めしたい。
▼ 「九条の会」の発起人である、哲学者梅原猛さんの言葉だ。「戦争が起こった以上は、潔く戦おうと思った。でも靖国だけは行きたくないと思った。私は戦争で死ぬ理由が見つからなかったからだ」。
▼ 後藤さんが戦争で死んだ理由を、みんなで考えてみよう。その解明こそが、神が人間に贈った「理性」だからだ。
▼昨夜、久しぶりに読み返した本。森本哲郎著「ことばへの旅⑤」。・・・自分の胸に手を当てながら。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます