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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
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アベ総理を徹底的に疑え?!

2016年07月05日 12時31分27秒 | えいこう語る

 

自民党の改憲草案を読んでの私の理解は、自民党は立憲主義を崩壊させようとしているように感じる。だが、アベ総理の人気は以前と高い。民主主義教育で育った世代であれば、立憲主義がなにかということは理解しているはずだ。圧政に苦しまないよう、国民が為政者に対し様々な契約をし、権力を乱用させないよう監視することだ。だがアベ総理は、その立憲主義の精神を改め、国民を権力で監視する仕組みに切り替えようとしている。一見人柄が良さそうなアベ総理だが、この人物、徹底的に疑いの目で見つめることが、国民主権である立憲主義の国民の、最も憲法を順守する、真っ当な視点のようだ。自分の国の総理を疑えとは、国民として最低な考え方のようだが、実はこの精神こそ立憲主義の基本的な精神らしい。

私がどうのこうのいうのはよそう。世界的に有名な方に登場してもらう。一人目は「法の精神」で有名な、フランスのモンテスキューさんだ。1748年に刊行された法の精神には、こう書かれている。『政治的自由は、権力が乱用されない時にだけ、制限的な国家にある。しかし、権力を担当する者が全て権力を乱用しがちであるということは、永久の経験の示すところである』。町会長である私も一権力者であるので、それは納得できる。役所の担当者でも、権力を振りかざす輩がいるので、以外と身近で納得できる、モンテスキューさんの指摘だ。

次は、フランス革命時に民衆運動の理論的指導者だった、ヴァレルさんの言葉だ。

『我々にとって明証された心理がある。人間は本来傲慢に創られており、高位に就くと必然的に専制に向かっていくということである。我々はいまでは、創設される諸機関を抑制拘束することが必要であり、そうしなければ諸機関全はすべて圧政的になるということを感得している。諸機関の間で抑制均衡させようと努めたりはしないようにしよう。人民以外の抑制力は、すべて誤りである』。実践的革命家のヴァレルさんの言葉は、説得力がある。

最後は、アメリカの独立宣言を起草した、トーマス・ジェファーソンさんだ。『信頼は、どこでも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく猜疑にもとづいて建設される。我々が権力に託さなければならない人々を制約的な憲法によって拘束するのは、信頼ではなく、猜疑に由来する・・・権力の問題においては、それゆえ人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行なわないように拘束する必要がある』。ジェファーソンさんは、立憲主義の真の精神は、信頼ではなく猜疑に由来すると、厳しい指摘だ。

繰り返してみよう。モンテスキューさんの「権力を担当する者が、全て権力を乱用しがちであるということは、永遠の経験の示すところである」とか、ヴァレルさんの「我々にとって明証された心理がある。人間は本来傲慢に創られており、高位に就くと必然的に専制に向かっていく」とか、ジェファーソンさんの「信頼はどこでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される」とは、いずれも衝撃的な発言だ。さらに結論は、アメリカやフランスの近代立憲主義は、{権力担当者に対する不信}に支えられ、その不信こそが近代立憲主義の精神だという。

これらの三氏の内容は、副題「立憲主義の創造のために」『憲 法』杉原泰男著の中から引用したものである。

アベ政権下で憲法改正論議が盛り上がりを見せようとしている。この著書の中に、私の目に焼き付いた文章がある。「第九条があるにもかかわらず、年々防衛費の突出がある。文教・科学振興費や社会保障関係費は、冷遇され続けている。体制の価値を具体的に表明する憲法が、ときに、反体制的な扱いを受けることさえもある。憲法をふまえた発言が『偏向している』といわれることも稀ではない。社会教育の場でも、憲法についての学習活動は、遠慮しがちだと言われるという文言だ。

私は、現在函館市社会教育委員だ。年6回ほどの会議が昨年は2回だ。予算が削減されているからというが、社会教育を推進することが必要でないとは思われない。必要であると説得を試みる仕事への情熱の問題である。今の、自民党憲法改正草案で、まず萎縮するのは教育現場だ。教育を国家が管理することから始まるからだ。毎月会議があって然るべきは、社会教育会議だと思う。今年初めての会議では、会議の少なさと、市民の「憲法学習」について提案するつもりである。


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