▼核のゴミ地下埋設処分場の文献調査を、町長の判断で応募した。これに対し、反対する住民から「住民投票条例」の請求が出された。
▼住民投票については、住民からの請求を受けた首長が、議会にはかり容認されれば、投票に向けた条例を議会が策定し、投票となる。
▼函館市が2011年4月に施行した「函館市自治基本条例」の第10条は「住民投票」についてだ。しかし4項には【市長は住民投票の結果を尊重します】とある。
▼「尊重」とは、最大限に配慮することであり、それを受け入れるかは、市民の直接選挙で選ばれた、市長の判断に委ねるという解釈になるのだろう。
▼寿都町の片岡町長は住民の請求に対し、住民投票は現段階では必要ないという反対意見を述べた。議会は賛成派が多いので、住民投票条例は否決されるだろう。
▼この寿都町の片岡町長は、憲法の骨幹である「国民主権」を無視し、反民主主義自治体の様相を呈しているのではないか。例えて言えば、中国に反対する香港の民主派議員の資格を剥奪する、周体制と同様にみえる。
▼先日、寿都町の状況を確認してきた女性の話を聞いた。「まちが分断され、もの言えぬ雰囲気にある」と。
▼田舎まちの首長選挙を何度も経験している私は、その分断がやがて自治体の崩壊につながるのを、見ているからだ。(二人の首長候補が、同時に選挙違反で逮捕された)。
▼首長候補が二人出る。政策などは全く関係ない。地縁・血縁の選挙だ。ゾウさんとキリンさんどっちが好きかという選択しかない。
▼公平・中立なはずの行政マンまでが、自ら参戦し地域の分断を促進するのだ。「二人ではない第三者の候補の出馬することを期待したい」などと、わけのわからない発言をして、煙に巻くしかない。
▼実際、地方自治体は、このようなレベルだということは、自分の地域だけではなく他のまちでの選挙でも実感してきた。
▼「住民投票」が、果たして民意をくみ上げ、民主主義の表現として適正なのかという疑問もわいてくる。
▼岐阜県御嵩町の産業廃棄物処分場問題で、反対派の柳川町長が襲撃され、意識不明の重体になった事件がある。
▼住民投票条例が制定され、反対派が80%にも及び、業者は許可申請を取り下げた。民意が反映された民主主義の恒例と思われるが、当時の柳川町長の談話が心に響く。
▼住民投票を実施した自治体の中で、一部の有権者が金や脅かしに屈したところがあるという事実を上げ【住民投票というのはどの自治体でもやれるというものではなく、有権者がある程度の水準に達していなければできないし、やってはいけないもの】だと語っている。
▼長く地方に住んでいると、真のまちづくりとは「地域教育の充実」にあるのではないかという結論に達する。
▼地方自治体の民主主義度は、地域の教育委員会の充実度で、判断できるような気がする。「事なかれ主義」を増長させているのは、教育現場に顕著に現れているからだ。
▼哲学者プラトンの「教育とは健全な地域社会と健全な人間をつくる」という言葉に、私自身も多いの共鳴させられるし、反省もさせられるからだ。
▼今井一著【住民投票】「客観民主主義を超えて」岩波新書にはこのように記載されている。
▼【今、私たちが追求すべきなのは、議員の人格や政治家のモラルを変えることだけではなく、民意を政治や行政に反映し得る制度を確立することなのだ。急ぎそれを果たさねば、市民は政治決定の場からますます疎外され、無力で無能な主権者“もどき”になってしまうだろう。民主主義は努力して獲得するもの。この国はいま、正念場を迎えている】。
▼この本の初版は、2000年10月だ。