夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「樋口一葉の和歌」展 (その1)

2015-01-02 23:22:22 | 短歌
樋口一葉は、現在の5千円札の肖像に採用され、わが国初の女流作家として有名である。
だが、代表作『たけくらべ』『にごりえ』などの小説や日記はよく知られていても、その和歌はさほど評価されているわけではない。
昨年、近代短歌を少しずつ学び初めてから、逆に明治期の旧派の和歌にも関心を抱くようになり、先日、特別展「樋口一葉の和歌~「萩の舎」での日々~」を観に行った。
台東区立一葉記念館は、樋口一葉がかつて住んでいた竜泉寺町(現竜泉)にあり、隣接してその旧宅跡が今は「一葉記念公園」となっている。


(写真は、公園内の「一葉女史たけくらべ記念碑」。)
展示室前の「開催のご挨拶」によると、
台東区では、今年度、樋口一葉の直筆資料、和歌軸、小説の草稿など8点を購入し、一葉記念館所蔵資料の充実を図った。
一葉が生涯を通して学んだ歌塾「萩の舎(や)」での稽古の全容を明らかにし、新収蔵となった資料がどのような修練を経て書かれたものかを紹介する。
樋口一葉は「歌詠む人」から文学活動を開始し、小説家として名声を得た後も「萩の舎」で身につけた和歌の調べや作歌の技法を駆使して、不朽の名作「たけくらべ」や「にごりえ」などの小説を執筆した。「萩の舎」は一葉文学の原点であったと言っても過言ではない。
ということが書かれていた。

以下、この特別展を観て印象に残った所々を摘記する。(記述にあたっては、同展の解説に多くを拠っています。)

「萩の舎」入塾まで
樋口一葉は明治5年(1872)、東京府の官吏である父・則義と母・たきの次女として生まれた。
本名はなつ(奈津)で、夏子とも書いた。
利発であった一葉は、私立青海学校(小学校)では教師から可愛がられ、松原喜三郎からは和歌を教えられて、文学への志向が芽生えることとなった。
しかし、母・たきの「女子に学問は不要」という強い意見によって、一葉は数えの12歳で、小学高等科第4級を修了したところで退学を余儀なくされた。そのことによって、一葉は女学校に進む機会を生涯失った。

父・則義は一葉の進学断念を不憫に思い、中嶋歌子の歌塾「萩の舎」に通わせた。
当時、「萩の舎」は、和歌、書の指導、古典の講義を行う歌塾として華族の子女や富商、知識人が多く名を連ね、一時は門人が千人を超すとも言われたほどであった。

一葉の師・中嶋歌子
一葉が「萩の舎」に入門したのは明治19年8月であるが、入門後すぐに才能を開花させた一葉を、歌子は娘のように可愛がった。
樋口家が相次ぐ不幸により家計が苦しいと聞くと、着物を送り、縫い物を頼み、一葉を内弟子とするなど、何かと気にかけた。
また、一葉に自分の後継者としての資質を見出すほど、その実力を高く評価していた。
一葉が小説家として多忙になると交流は少なくなるが、一葉は晩年、病のために思うように小説の執筆が捗らなくても、歌子から教わった和歌だけは、死の直前まで詠むことを続けた。

親友・伊東夏子
一葉が「萩の舎」に入門して以来、最も親しくした友人の一人で、明治5年生まれで年齢が同じ、名前も同じことから「い夏ちゃん」「ひ夏ちゃん」というニックネームで呼び分けられたことも親しみを深めた。
田中みの子と共に「平民組」として結束を強め、一葉にとって初めて「親友」と呼べる仲間を得たのが「萩の舎」であった。

今回の感想
展示品の中に、一葉が青海学校小学高等科第4級を修了したときの証書があった。
首席での卒業で、一葉自身、進学を希望していたのに、母の強い反対で断念したときはどんなに悔しかっただろう。
しかし、通常の学校教育でなく、歌塾で中嶋歌子から直接に和歌・古典・書を教わり、歌友と切磋琢磨する環境に身を置いた経験が、後に一葉を文学者として大成させたのだと思う。
解説には、中嶋歌子は「その古典の活きた言語力、教養、和歌・和文の創造性のみならず、小説、日記にわたる一葉文学全般の形成に多大な影響を与えた」とあった。
私自身の、学問や短歌を学んだ経験から言えるのだが、師と呼べる人から知識や技術だけでなく、その人柄や生き方も含めて全人的な影響を受けることは、とても幸福なことなのではないかと思う。(もちろん、その影響が桎梏になりうることを認めた上で。)

一葉の「萩の舎」での歌学びについては、また次回に。

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