夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「樋口一葉の和歌」展 (その2)

2015-01-03 23:23:46 | 短歌
樋口一葉の「萩の舎」での歌学びは、短歌初心者の私にとっては、非常に興味深いものであった。
その前日の例会で、中世~近世期の和歌添削と注釈の実態について、研究発表で聞いたことと重なる部分もあったので、なおさら関心をかき立てられた。


(写真は、一葉記念館にあった大熊手。)

中嶋歌子の和歌の指導方法
解説
中嶋歌子の指導と教養は、当時の女流歌人の中でもとりわけ優れているものであった。
和歌は女性として身につけておかなければならない最高の教養であり、殊に上流家庭の子女においては必要不可欠と考えられていた。
「萩の舎」で最も頻繁に行われていた作歌の方法「題詠」は、架空の世界を創り出すことを学び、いわば歌により幻想の世界を表出することであった。
この幻想の世界は、歌を作る者の日常の観察力と経験、読書や「萩の舎」での指導により培われた知識が重要で、歌子の指導は、このような観察力・経験・知識を重視したものであった。
古来、歌人がいかに実景を重んじていたかについていつも心を傾け、本歌取りの練習のためにも、名歌をよく学んでおくこと、常に歌心を持ちながら物事を眺め、表現する歌語に注意すること、を歌子は指導した。

感想
「常に歌心を持ちながら物事を眺める」、というところにハッとさせられた。
歌を作るには日常から観察力を鍛え、様々な経験や読書をし、名歌を覚え、言語感覚を磨いておかなければならない。
これは、私の所属する結社の先生の教えとも重なる。
与えられた題に基づき架空の世界を詠む旧派の和歌と、個人が自分の感動を自由に詠む現代短歌では、表現の方向性が違うけれども、にも関わらず、歌の上達のために必要なことが共通しているのは面白い。

「萩の舎」の書
解説
「萩の舎」で教えた千蔭(ちかげ)流は、賀茂真淵の門人である加藤千蔭によって完成された草仮名・草書の書法で、線・かたちの艶美と品格を追求している点に特徴がある。歌人の間で流行し、和歌と共に生きてきた流派だと言える。
一葉をはじめとする「萩の舎」門人にとって、和歌と書の関係は極めて密接であり、書なくして和歌はありえなかった。

感想
歌と書の関係は、現代では大きく変容してしまった部分ではないかと思う。
近代の歌人には、私が最近見ただけでも、正岡子規、与謝野晶子、柳原白蓮など、書もまた見事な者が多かった。
現代の短歌は、初めから活字で読むことが前提となっており、歌と書を同時に習う人も少ないのではないかと思う。
一葉は、「文字こそ人の心をあらはするものなれ。」と言っている。
現代の我々は、文字を単なる意思伝達のための道具、記号とのみ捉え、書の美しさを味わったり、筆跡からその人柄を偲んだりする機会が失われているように思う。


(写真は、一葉記念公園前の石碑。)

今回の感想
会場には、一葉が「萩の舎」で学んでいた頃の習作や詠歌などの自筆資料がいくつか展示してあった。
次の二首は、明治24年10月に、「萩の舎」で宿題として出された題について習作したもの。

    初冬木枯
  散りのこる紅葉さそひて神無月あはただしくも吹く嵐かな
    道行く人時雨にあへり
  村時雨今晴れぬべしたまぼこの道行く人よ急がずもがな

「萩の舎」では、数詠(かずよみ)といって、一定時間に歌を詠み競い採点を受ける詠歌の修練が行われていた。
次の歌は、明治27年11月に行われた数詠の際に、一葉が「行路時雨」の題で読んだもの。

  たまぼこの道づれにとは言はざりし時雨に今日も逢ひてけるかな

展示品の中には、一葉が明治20年2月、九段坂上の「漫源楼」で行われた歌会(発会)に初めて出席した時の写真もあった。
この時、一葉は、並み居る同輩達をしのいで最高点の十点を取り、古着で参加した引け目も忘れて喜んだそうである。
その歌の短冊もあり、「月前柳」の題で、

  うちなびく柳を見ればのどかなる朧月夜も風はありけり

と書かれていた。

私がこの短冊を見ていたとき、会場にはちょうど、年配の方々が団体で来られていたのだが、一葉(数えで16歳)の写真を見て、
「あら、可愛いわねえ。」
「本当ねえ。」
などと、感心したように話していたのがおかしかった。

「樋口一葉の和歌」展の話題は、あともう一度取り上げる。

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