夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

夜をあはあはと

2018-07-26 18:04:47 | 日記
毎回、近代短歌の授業で実施している「穴埋め短歌」、今回は河野裕子の歌からの出題。

生きるとは ■■■■ことと 日記に書く 夜(よ)をあはあはと 春の雪降る

元の歌「疲るる」 

学生の解答(括弧内は私のコメント)
・「考える」(ルネ・デカルトの「われ思考す、ゆえにわれ存在す」ですね。)/「死を待つ」(我々は日常、自分が一日一日と死に近づいていることに、どれだけ気づいているのでしょう。)/「ときめく」「夢見る」(ぜひ、そのときめきや夢を持続させてください。)/「別れる」(愛別離苦は、人の世のならい。)/「失敗する」(間違いを繰り返しながら人は成長し、生きていくのです。)/「旅する」(日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。)/「恋する」(若い人が羨ましい。)/「日々知る」/「無意味な」(いいえ、どんな人生にもそれぞれの意味がある、というより、自分の人生の意味(使命といってもよいが)は、一生かけて自分で探していくのです。)/「寂しい」(そうですね、誰もが一人で生まれ、一人で死んでいく。)/「生き抜く」(受身で与えられた生を、自分の生として主体的に生きていく。)/「苦しい(苦しむ)」(同様多数。実はそうだ。誰もがそれぞれに、生きることは本来苦しいものだという覚悟を持つ必要がある。)/「終わりある」(有限だからこそ、命は尊く美しいのだと思います。)/「傷つく」(これもその通りです。だからこそ、他人の心の傷を思いやり、癒やせる人になりましょう。)


感想 
この歌は、河野裕子第一歌集『森のやうに獣のやうに』の跋文(ばつぶん)を書いた歌人・高野公彦が、その中で取り上げているもの。
河野裕子は昭和三九年(一九六四)、高校三年の時に、病気のため入院し、七月から翌年三月まで休学しているが、その頃の歌に、
  通学も進学も断ちて病む日日を病棟の庭に夾竹桃咲く(昭40・2)
  生きるとは疲るることと日記に書く夜をあはあはと春の雪降る(昭40・6)
  みづからを卑屈にするなと言ふ如く枯れ草の野にいぬふぐり咲けり(同)
  ふつふつと湧くこの寂しさは何ならむ友らみな卒(を)へし教室に佇(た)つ時(同)
  癒(い)えしのちマルテの手記も読みたしと冷たきベッド撫でつつ思ふ(昭40・9)
  振りむけば失ひしものばかりなり茜重たく空充たしゆく(昭40・12)
といった歌がある。高野公彦が言っているが、こうした「寂しさ、虚しさ、苦悩」が歌人・河野裕子の原点にあり、短歌はまず何よりも彼女にとって「自己救済の手段」であったのだろうと思われる。
学生の今回の解答に秀逸なものが多かったのは、年代的に近い、十代終わりの若者の苦悩や孤独に響き合うものがあったのかもしれない。

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