元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「はじまりのうた」

2015-03-17 06:37:27 | 映画の感想(は行)

 (原題:Begin Again )ストーリー自体は大したことはない。しかし、劇中で使われる楽曲の扱い方には非凡なものを感じた。ジョン・カーニー監督の前作「ONCE ダブリンの街角で」は観ていないが、高度な音楽的センスはこの作者の持ち味なのだろう。その意味で、観る価値はある。

 イギリスからニューヨークへとやって来たシンガーソングライターのグレタは、恋人のデイヴに裏切られて失意の日々を送っていた。一方、音楽プロデューサーのダンは昔は羽振りが良かったが、今はヒット曲を手掛けることが出来ず、ついには自分が共同経営者として設立した事務所からリストラされてしまう。そんな二人がライブハウスで出会い、グレタの歌に惚れ込んだダンは彼女をデビューさせるべく東奔西走する。そんな中、ミュージシャンとして売れるようになったデイヴは、グレタとヨリを戻したいような素振りを見せ始める。

 グレタを挟んだダンとデイヴの三角関係(のようなもの)の成り行きには大して面白味があるわけではない。そもそも、この3人は恋愛の修羅場を潜る気もない。だから作劇に対しては極めてライトな印象しか受けないのだが、これはこれで良いと思う。本作の主眼は入り組んだ色恋沙汰ではなく、音楽と街(ニューヨーク)そして人々との関係性なのだ。

 あまり金の無いダンは、グレタのデモテープを作るために、街角で次々とゲリラレコーディングを敢行していく。音楽が街の風景とシンクロし、清新なバイブレーションを起こしていく様子は、人々の生き方に音楽が深く根付いていることを鮮やかに示していて面白い。中でもグレタとダンがDAPでスティーヴィー・ワンダーの「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」を聴きながら街を歩き、そのままクラブになだれ込んで踊るシークエンスは最高の盛り上がりを見せる。

 グレダを演じるのはキーラ・ナイトレイだが、正直言って歌は上手くない。だが、珍しく現代劇においても可愛く撮られており、自前の演技力によってそれほど違和感もなく見ていられる。ダンに扮するマーク・ラファロも食わせ者の中年男を楽しそうに演じており、ダンの娘役のヘイリー・スタインフェルドは「トゥルー・グリット」に続いて存在感を発揮している。そしてデイヴ役として人気ロックバンドのマルーン5のアダム・レヴィーンが友情出演。優柔不断な役どころを上手く演じ、ソウルフルな歌声も披露しているのは見逃せない。

 登場人物たちが野外でぶっつけ本番の収録に挑むくだりを観ていると、以前このブログで紹介したスーザン・ケイグルのファースト・アルバム「ザ・サブウェイ・レコーディングズ」を思い出した。そういえば、あのアルバムの録音場所もニューヨークだ。ヤーロン・オーバックのカメラは街の名所旧跡もカバーしており、観光気分も味わえる。
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「お父さんのバックドロップ」

2015-03-16 06:29:29 | 映画の感想(あ行)
 2004年作品。絵に描いたようなスポ根もので、誰が映画化してもそれなりの出来になりそうな題材だが、あまり面白くなかったのは、これが監督デビュー作であった李闘士男の演出が想像以上にヘタだったからだ。

 小学生の一雄は、プロレスラーである父親の下田牛之助と、祖父の松之助と3人で小さなアパートで暮らしている。プロレスが大嫌いな一雄は牛之助の職業を恥ずかしく思い、父親と打ち解けられない。クラスメイトにも父親の職業を秘密にしているほどだ。そんな一雄に牛之助は仲良くなろうとアプローチするが、あまりに不器用で逆に溝は深くなるばかり。そんな牛之助に出来ることは、やっぱりマットの上で父親のカッコイイところを見せるしかなかった。そして、空手チャンピオンとの無謀な他流試合に挑む。



 とにかくドラマ運びが散漫。焦点が絞り切れていない。うだつの上がらぬ中年男と利発な小学生の息子との父子家庭の描写、そして大一番に備える主人公の奮闘ぶり、映画のメインはこの二点で良い。隣に住む未亡人とのやり取りや息子の学校生活、トボケた祖父やレスラー仲間などの扱いは必要最小限に留めておくべきであった。

 時代背景が1980年である意味もあまりなく、大阪が舞台である必要もない。それでも肝心の試合場面が盛り上がれば言うことなかったのだが、これが素人っぽさ丸出しだ。数秒で終わっているような試合を、なぜか主人公は致命傷も負わずに何度も起きあがる。技の出し方にも工夫がなく、同じようなショットが延々と流れるのみ。

 主演の宇梶剛士は特にこの映画用に向けてトレーニングしたようには見えないし、何より子役の神木隆之介と親子だとはとても思えない。それにしても、このタイトル自体が“ネタバレ”であると言えるが、劇中に終盤まで(セリフ以外に)全然バックドロップが出てこないのも納得できない(笑)。

 李闘士男は本作の後に何本か映画を手掛け、テレビドラマの演出もコンスタントに続けているが、いまだに代表作と呼べる作品が無い。監督業より自身の会社の経営に専念した方が良いのではないかと、勝手なことを思ってしまった。
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「おみおくりの作法」

2015-03-15 06:47:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Still Life)とても感銘を受けた。何より、主人公の生き方がカッコいい。人間の尊厳に敬意を払い、常に真摯に行動を積み上げていく。たとえ派手さは無く寡黙ではあっても、誰かはちゃんと認めてくれる。こういう姿勢で人生を送れたら、まさに悔いは無い。

 ロンドンに住む公務員、ジョン・メイは地区センターで民生係をしている。彼の仕事は、地域内で孤独死した人の葬儀を行うことだ。出来うる限り身寄りを探し、もしも見つからなければ自分が唯一の参列者となる。さらに遺品類から宗派を調べ、斎場を決め、葬儀で流す音楽を考え、空いている墓地を用意して埋葬する。すでに40歳は超えているが、いまだ独身。いつも決まった食事をし、机の上の備品の置き方にも気を配る。

 ある日、彼は向かいのアパートに住んでいた老人が一人で死んだことを知る。近くにいながら何も気付けなかった自分に負い目を感じたジョンは、いつにもましてその老人の生い立ちを調べることに集中する。だが、そんな熱心すぎる仕事ぶりを疎ましく思っていた上司は、彼にリストラを言い渡す。ジョンはせめて今取り組んでいるこの案件だけは成就させてくれるようにと依頼し、最後の職務に励む。

 ウベルト・パゾリーニ監督は小津安二郎監督作品に影響を受けたと言うが、内容は小津作品とは正反対だ。人は全て孤独であることを洗練されたタッチで描いた小津に対し、本作は真に孤独な人間など存在しないと強く訴える。ジョンは、担当した者達が残した写真を仕事が完了した後に持ち帰り、アルバムに貼る。友人も恋人もいない彼にとっての後ろ向きな代替行為のように見えて、実は他者との絆を再確認する能動的な行動であり、そこには暗さは無い。

 そんな彼が、最後の仕事の途中で心動かされる相手と出会う。モノクロームだった彼の人生が、ほんのりと赤みがさす様子を描く、このあたりの扱い方は見事だ。それに続く終盤の急展開、および後々までの語り草になるであろう驚くべきラストシーンまで、見方によっては乱暴とも思える持って行き方も、それまでの密度が濃くなおかつ抑制の効いたタッチにより絵空事にならない。

 パゾリーニの演出は淡々としていながら随所にユーモアを織り交ぜ、飽きさせない。主演のエディ・マーサンはまさに名演と言うしかなく、その一挙手一投足に主人公のストイックな人生を表現させていて圧巻だ。相手役のジョアンヌ・フロガットも良い味を出している。

 パゾリーニは第70回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門にて監督賞を受賞。ステファーノ・ファリベーネのカメラによる彩度を落とした静謐な映像や、レイチェル・ポートマンの効果的な音楽も印象に残り、これは本年度のヨーロッパ映画を代表する秀作と言って良いだろう。
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“ハイレゾ対応”というキャッチフレーズ

2015-03-14 06:52:58 | プア・オーディオへの招待
 先日、ショップでSONYのスピーカーSS-HA1を聴いてみた。プレーヤーとアンプも同社の製品であったが、音の傾向自体は従来のSONYのシステムとさほど変化はない。つまりは、聴感上の物理特性(みたいなもの)を取り敢えず整えてはいるが、明るさも艶も潤いもない無愛想なサウンドだ。変にメカニカルなデザインも含めて、私は評価出来ない。

 だが、出てくる音よりも興味を惹かれたのが、この製品が“ハイレゾ対応”というキャッチフレーズで売られていることだ。



 以前にも書いたが、ハイレゾというのは従来型CDよりも優れた定格を持つ“音源”のことを指す。“音源”である以上、それに対応する機器というのは“音源”に近い部分、つまりはデジタル信号をアナログに変換する装置(DAC)およびその周辺のデバイスだと考えるのが普通だ。しかし、音の出口であるスピーカーがハイレゾに“対応”しているのというのは意味が分からない。そこでSONYのホームページを覗いてみたら、開発担当者のインタビュー記事が載っていた。以下はその大意抜粋である。

|従来のスピーカーでは音のスイートスポットが狭いため、少し頭を
|動かしただけで、ハイレゾの良さが味わえなくなってしまいます。
|さらに問題なのはセッティングのシビアさです。オーディオマニア
|の方であればルームチューンなどで部屋を改造して音の反射や家具
|などの振動を調整したりするのですが、一般の方にはそんな知識・
|経験はまずありません。

|つまり幅広く自宅で気軽にハイレゾの良さを楽しんでいただくため
|には、純粋に音質を向上させるだけでなく、スイートスポットの狭
|さの問題やセッティングの問題、及び機器の相性の問題のすべてを
|解決する必要がありました。

 私はこれを読んで呆れてしまった。つまり、SONYの考える“ハイレゾ対応スピーカー”というのは(1)指向性がシビアではなく(2)セッティングが楽で(3)アンプ類との相性を考えずに済む製品なのだという。ハッキリ言ってそれは使い勝手に属する事柄であり、ハイレゾ音源の特性に準拠したことでも何でもない。関係のない項目を、あたかもそれが本筋であるかのように謳っているのは、不適当ではないか。

 そもそも“指向性の緩いスピーカー”など以前から(無指向性型も含めて)市場に流通していたし、大雑把なセッティングでも破綻の無い音で鳴り、繋ぐアンプを比較的選ばないスピーカーも存在していた。今回のSONYのやり方は、そういう既存の方法論を踏襲しているだけであり、何らハイレゾ音源とは特定的にリンクしていない。



 この“ハイレゾ対応”というフレーズを聞いて思い出すのが、CDが登場した80年代前半によく目にした“デジタル対応”という言葉である。当時はまるで“デジタル対応”のステッカーが貼っていないスピーカーやアンプではCDが鳴らせないような風潮があったが、実際にはどんな古いシステムでも、CDプレーヤーを導入して結線すればCDに入っている音は出たのだ。

 要するに“デジタル対応”なる謳い文句は、従来からのアナログ音源とは違うデジタルのソースであるCDが世に出たことにより、それに便乗して他のコンポーネントも抱き合わせで売ってしまおうという、業界側の姑息な商法に過ぎなかった。

 今回の“ハイレゾ対応”も似たようなものである。以前からのシステムであっても、楽曲をダウンロードしてDACをアンプにつなげば、立派にハイレゾ音源は再生できるのだ。“ハイレゾ対応”のスピーカーなどをあえて新たに買う必要もない。

 貧すれば鈍するのたとえ通り、業績が思わしくないSONYは、30年前に役割を終えたようなマーケティングを物置から引っ張り出し、何とか再利用しようと躍起になっている。だが今は昔と違ってオーディオは斜陽化し、ハイレゾ音源自体のアピール度も低い。早晩、この場当たり的な売り方はユーザーから足元を見られ、破綻することだろう。

 “従来型スピーカーではハイレゾの良さが味わえない”と言わんばかりの高圧的な態度よりも、“ハイレゾを含めたすべての音源のアキュレートな再生を目指す”というような正攻法のスタンスを取り、地道な商品展開に励んだ方が中長期的にはプラスになるに決まっている。今のSONY(及びその他の国内メーカー)にそれが出来るかどうかは大いに疑問だが、そこから始めるしか方策は無い。とにかく“ハイレゾ対応”などという欺瞞的なキャッチフレーズは、ゴミ箱に捨ててもらいたい。
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「味園ユニバース」

2015-03-13 06:25:11 | 映画の感想(ま行)

 主演の渋谷すばるに尽きる。彼が関ジャニ∞のメンバーであることを今回初めて知ったが、別にこのグループに興味があるわけでもない(知っているメンバーは他に「ちょんまげぷりん」に出ていた錦戸亮ぐらい)。しかし、ジャニーズのタレントとはとても思えない、全身から滲み出るガラの悪さ。さらに、これもジャニーズのタレントとは信じられないほどの(笑)歌の上手さ。いずれにしろ、かなりの存在感だ。彼が今後コンスタントに映画に出られるのかどうか分からないが、面白い素材であることは間違いないだろう。

 刑期を終えて出所したばかりの若い男は、以前の仲間と会った後、突然何者かに襲われて頭を強打する。目覚めたときには記憶喪失になっていた彼は、公園で行われていたバンド「赤犬」のライブにフラフラと迷い込み、圧巻の歌唱力を披露する。「赤犬」のマネージャーのカスミは彼に興味を抱くが、男は歌うこと以外何も覚えていない。カスミは彼を“ポチ男”と名付け、貸しスタジオの仕事を手伝わせると共に、事故に遭って休養中のバンドのヴォーカリストの代わりに迎えようとする。だが“ポチ男”の過去は、まさに忘れてしまいたいほどに辛いものだった。

 正直言って、「リンダ リンダ リンダ」(2005年)以来久々に音楽ものを手掛けた山下敦弘の監督作としては、それほど上出来とは言い難い。昔“ポチ男”がやったことは、いくら懲役を終えたとはいえ許されることではない。バンド活動ぐらいでは禊ぎは済まないのだ。もちろん、かつての身内は冷たい態度を見せるが、全体的に突っ込みは鈍い。終盤の“落とし前”の付け方にしても、中途半端だ。

 カスミにしても学業を諦めて場末のスタジオの経営をやらざるを得ない境遇に対しては大きな屈託があるはずだが、それを深く掘り下げていないのは不満が残る。だが、それほど本作を嫌いになれないのは、前述の渋谷のパフォーマンスと、舞台になった大阪の下街の風情、そして演奏シーンの非凡さにある。

 「赤犬」という(実在の)バンドはキャラが濃く、かなりの実力派。ノスタルジックな楽曲を、ライブハウスが揺れるようなパワーで押しまくる。一度生で観てみたいものだ。余談だが、メンバーは監督と同じ大阪芸術大学の卒業生らしい。

 カスミに扮する二階堂ふみは今回も達者な演技を見せ、意味も無くセーラー服姿を披露するというサービスショット(?)まである。鈴木紗理奈や川原克己、松岡依都美、二宮弘子といった脇の面子も良い。特に店主・ホームレス・“ポチ男”の父などの四役を担当した康すおんの役者ぶりは光る。
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「つぐみ」

2015-03-09 06:36:50 | 映画の感想(た行)
 90年作品。市川準監督の代表作であり、この時期の日本映画を代表する逸品のひとつ。物語の語り手である大学生のまりあは、東京の映画館で母と一緒に「二十四の瞳」を観た後に。ふと“海の匂い”を感じる。その瞬間、カメラは大通りを突っきり、川を下り、東京湾に出て、まりあが生まれ育った西伊豆の海辺の街まで移動する。この魅力的なオープニングだけでこの映画は観る価値がある。

 その街にはまりあと家族同様に暮らした陽子とつぐみの姉妹が今でも住んでいた。つぐみは小さいころから病弱で現在でも医者なしでは生きられない体だ。両親はじめ回りの者はそんなつぐみを特別扱いしたおかげで、彼女はまりあが言うところの“完全にひらきなおった”性格の少女に成長していた。ドラマはまりあがその街に最後の帰省をした夏の出来事を描いていく。

 つぐみは、ある日街にやってきた青年を好きになる。ところがつぐみに思いを伝えられない不良少年が様々なひどい嫌がらせをする。愛犬まで殺されたつぐみは怒り、復讐を決意する。そんなことがあっても盆の灯篭流しの日がやってきて、まりあの父親が街に来て、また帰っていく。



 このドラマには“少年”が登場しない。ヒネた不良少年は完全にドラマの添え物であって決して中心とはなり得ていない。つぐみが思いを寄せる青年は小さい頃からコンプレックスのかたまりで、今でもそれを引きずっているようだ。少年は挫折して大人になるらしい。では少女はどうやって大人になるのか。それは“少年”と出会うことによって成長していくのだ・・・・と何かの本に書いてあった。

 現代では男の子は“少年”となる前に複雑な社会機構に対して気後れし、オタクなどと呼ばれて自分の殻に閉じ込もり、挫折することを知らずに体だけは大きくなっていくのだろうか。そうなると少女はいつまでたっても大人になれないまま年を重ねていくしかない。

 しかし、つぐみのように自分の中に“少年”を持っている少女は別だ。彼女は男のような言葉使いで、最初の部分ではつけヒゲまでつけて登場する。平凡な女子大生に過ぎないまりあはつぐみの中に“少年”を見ていたのだろう。やがて彼女たちにも等身大の自分と向き合い、挫折する日が来る。しかし、そうなっても自分が大人の女とは思えないまま、年をとっていくのかもしれない。

 このドラマはまりあの回想形式で展開する。彼女にとっての“リアル”はあの海辺の街で過ごした時間だけであり、現在の自分はどこか“非現実”であり、本当ではないことのように思っているのだろう。大人になれない女たちと男たちが過去を思い出すという、ノスタルジーとは一線を画した、苦くやりきれない気持ちを描き出し、切ない感動を呼ぶ。ここで描かれる清涼で暑くない夏、そしてアッという間に終わってしまう夏、そういう象徴としての夏がそう思わせる。

 よしもとばななの小説を取り上げた市川準の演出は実に繊細なタッチで、登場人物の内面をセリフではなく映像で語らせる。つぐみ役の牧瀬里穂はこの映画が主演第2作目だったが、タダ者ではない凄味を見せる。まりあに扮した中嶋朋子や、陽子役の白島靖代、そして青年役の真田広之など、当時の若手俳優が存分に実力を発揮していた。川上皓市のカメラによる透き通るような映像や、板倉文の音楽、小川美潮が歌う主題歌なども実に効果的だ。
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「フォックスキャッチャー」

2015-03-08 06:35:41 | 映画の感想(は行)

 (原題:FOXCATCHER)図式的で底の浅い話を、いたずらに深刻ぶって語っているだけの映画で、とても評価できない。オスカー獲得確実という前評判があったが、いざ蓋を開けてみるとノミネーションは主演男優賞と助演男優賞のみで、結果は受賞ゼロであったのも納得できるようなレベルである。

 レスリング選手のマーク・シュルツは84年のロス五輪で金メダルを取ったが、その後は練習環境に恵まれず、経済的にも不遇であった。ある日、デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンから、ソウル・オリンピックに向けてのレスリングの強化チーム“フォックスキャッチャー”を作るから入らないかという依頼を受ける。

 マークにとっては理想的な条件で、二つ返事で承諾するが、練習を続けていくうちにエキセントリックな性格のジョンと選手たちとの間には溝が生じてくる。やがてマークの兄で同じく金メダリストのデイヴがチームに加わるが、事態は混迷の度を増し、思わぬ惨劇が発生する。デュポン財閥が所有するフォックスキャッチャー農場で実際に起きた事件を題材にしたドラマだ。

 要するに、互いに孤独を抱えていたマークとジョンは共鳴し合い、ジョンは“リア充”の者に嫉妬して凶行に走ったと、そういうことらしい。しかも、それ以前にマークは兄へのコンプレックスに悩まされ、ジョンは母親との確執があったというシンプルすぎる設定が提示されている。こんな通り一遍で明け透けな筋書きをもって実録物を作ろうという、その能天気さには脱力する思いだ。

 もっと深く掘り下げるか、あるいは思い切った解釈をして観客の度肝を抜くか、いずれにしろ映画化に対する強い動機付けや求心力が無ければ製作する意味も見い出せない。いくら静謐で抑えたタッチで“意味ありげ”なポーズを気取ろうと、無駄なことだ。

 だいたい、この事件が起きたのがソウル五輪からかなりの時間が経った96年であり、いかにもソウル大会から間もない時点で発生したような描き方をしている本作は、事実を捻じ曲げていると解釈されても仕方がない。

 ベネット・ミラーの演出は「マネーボール」よりも質的に後退し、その前の「カポーティ」で見せたような退屈で要領を得ない展開に終始。客席では居眠りをしている者も散見されたが、無理もないと思う。ジョンを演じるスティーヴ・カレル、マーク役のチャニング・テイタム、デイヴに扮するマーク・ラファロ、いずれも熱演だが斯様に作劇に力がないので空回りしている感がある。

 印象的だったのはジョンの母親を演じるヴァネッサ・レッドグレーヴの貫録と、グレッグ・フレイザーのカメラによる清澄な映像のみ。あえて観なくても良い映画である。
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「ネバーランド」

2015-03-07 06:31:16 | 映画の感想(な行)

 (原題:Finding Neverland )2004年作品。戯曲「ピーター・パン」の製作秘話を作者ジェームズ・マシュー・バリと父親を失った4人兄弟との触れ合いを通してファンタジー仕立てで描くこの作品、よくある“人生には夢が必要なのだよ”という御題目に終始しているだけの映画だったらどうしようかと思っていたが、そこは「チョコレート」のマーク・フォースター監督、ファンタスティックな場面はほどほどに、辛口のアプローチを試みている。

 1903年のロンドン。劇作家のジェームズは、新作の評判が思いのほか悪いため、失意のドン底にあった。そんな時に知り合ったのが、シルヴィアと4人の幼い息子達であった。ジェームズはこの一家と仲良くなるが、中でも三男のピーターはジェームズの子供の頃を思い起こさせるような繊細さを見せ、そのことが新作「ピーター・パン」の大きなモチーフとなる。だが、やがてシルヴィアとの悲しい別れが待っていた。

 何より「ネバーランド」を“ピーター・パンが住むおとぎの国”ではなく、死者の住む“彼岸の世界”として扱っているのはポイントが高い。それは4人兄弟の父親がいる場所であり、生きている我々がやがては必ず行く世界、それ以前に生者の“死者を想う心”が生み出した世界である。これは三男坊のピーターが、父親の死を受け入れて再生を果たす物語だとも言え、そのモチーフとして「ネバーランド」を取り上げたに過ぎないのだ。

 ピーターを演じるフレディ・ハイモアがめっぽう良い。子供なのに、表情だけは醒めきっている。彼は“想像力は現実を変える。瀕死のティンカーベルも観客の拍手でよみがえるように”なんていう御為ごかしは信じない。ただ、現実に対し自分の方が折り合いを付けるという“大人”の対応法を会得しただけだ。そしてそれが“成長”というものだ。

 バリを演じるジョニー・デップは“受け身”の役柄で、彼にとっては軽くこなした程度。それよりケイト・ウィンスレットやジュリー・クリスティら英国俳優がさすがの貫禄を見せる。ヤン・A・P・カチュマレクの音楽も素晴らしい。
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「バベルの学校」

2015-03-06 06:35:21 | 映画の感想(は行)
 (原題:La cour de Babel)同じような題材を扱ったローラン・カンテ監督「パリ20区、僕たちのクラス」(2008年)に比べれば、印象は強くはない。緻密な脚本によって作り上げられ、カンヌ国際映画祭の大賞受賞作でもある「パリ20区」に対して、本作は純然たるドキュメンタリー。しかも映画好きが喜ぶような“仕掛け”も施されていない。だが、フィクション仕立てとは異なり素材をレア提示することによって、問題の大きさが浮き彫りになってくるという意味では、観る価値はある。

 本作の“主人公”は、パリ市内の中学校のあるクラスに集まった、フランスに移住して来たばかりの24人の生徒達だ。出身国はさまざまで、彼らは合計20の国籍を持つ。フランス語もロクに話せないため“適応クラス”という学級でフランス語や基礎学力を身に付け、その後に通常の学級に入ることになる。映画は、ある適応クラスの一年間を追う。



 無論のこと、クラス運営は一筋縄ではいかない。何しろそれぞれが育ってきた文化が違うのだ。しかも、フランス語があまり出来ないため、いきおい物言いは直截的になり衝突が絶えない。特にネタが宗教がらみになると手に負えなくなる。

 だが、教師陣はそれを一律的に押さえつけようとはしない。各々の本音を出し合うことにより、現状に鑑みて何らかの着地点を見出していくことをフォローするのみだ。さらに、父兄にはフランス語の全く通じない者がおり、教師との打ち合わせには子供が通訳を買って出ることもある。

 こういう状況を見て改めて思うのは、多民族社会のあり方の難しさだ。日本では今のところ大量の移民は受け入れていない。しかし、以前観たドキュメンタリー映画「ハーフ」の中でも言及されているように、今や日本で生まれる赤ん坊のうち約40人に1人はハーフなのだ。いつの間にやら多様化が進む日本社会にとって、本作で描かれるような事態が現実化するのは、そう遠い将来ではない。その時には、今までのように画一的な教育方針を推し進めることは難しくなるだろう。



 ジュリー・ベルトゥチェリの演出は丁寧で、毎週2,3回クラスに通い1年間通して生徒達に接しただけあって、個々人のキャラクターを上手く掬い取っている。劇中では学年末に開催される“発表会”がハイライトになるが、ケレンを利かした盛り上げ方はしていない。あくまで自然に描かれているのには好感が持てる。

 また、担任のブリジット・セルヴォーニ教諭も14年間の海外生活を経験しており、各国で教鞭を取ったことがあるという。だからこそ、このクラスが大過なく学年を終えられたと言うことも出来るだろう。教える側にも“グローバル化(あまり好きな言葉ではないが)”のトレンドは不可避になるのかもしれない。
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「パワープレイ」

2015-03-02 06:37:06 | 映画の感想(は行)
 (原題:Power Play)78年イギリス作品。骨太のポリティカル・サスペンスであり、しかも扱われている題材は古くない。それどころか、冷戦終結後の混沌期を経て、今や新・冷戦時代に突入したかと思われる先の見えない現在において参考になるようなモチーフを提示している。観て損の無い快作と言えよう。

 舞台はヨーロッパの架空の国。そこでは経済大臣がテロリスト・グループによって誘拐されて殺されるという事件に端を発し、テロリスト制圧を口実に軍隊や秘密警察が暗躍する不穏な状態に陥っていた。秘密警察署長のブレアーは多数のテロリストを逮捕するが、その中には退役まで間もないナリマン大佐と親しい少女ドンナが含まれていた。ナリマンは秘密警察に対して彼女の釈放を要求するが、ドンナは無残にも殺されてしまう。



 怒ったナリマンは反体制の立場を取る陸軍大学の教授ルーソーやカサイ大佐と結託し、クーデターを画策する。だが、実行部隊を立ち上げるまでに数々のトラブルが発生。戦車隊を率いるゼラー大佐の協力を取り付けるが、政府側は主要メンバーのスキャンダルを暴いて反政府勢力を揺さぶりにかかる。裏切りに次ぐ裏切りで敵も味方も判別出来ない中、果たして最後に笑うのは誰なのか。

 とにかく、脚本の巧みさに圧倒される。クーデター側とそれを抑え込もうとする秘密警察との、虚々実々の駆け引き。強固なプロットと饒舌に過ぎない節度のあるシークエンスの組み立て。そして意外な結末と、まるで教科書のような御膳立てだ。これが原作ものではなく、オリジナルのシナリオだというのだから天晴れである。

 マーティン・バークの演出は力強く、軍隊が街を制圧する場面のダイナミズムや、タメの効いたシーンの切替などに目を奪われる。そして、ピーター・オトゥールやデイヴィッド・ヘミングス、ドナルド・プレゼンスといったクセ者俳優達を楽々と使いこなしているのも嬉しい。

 映画はニューヨークのテレビのトーク・ショーから始まるが、これは作劇に臨場感を与えると共に、今も世界の各地で欲得ずくの“パワープレイ”が行われていることを強く印象付けられる。ケン・ソーンによる勇壮な音楽と、オーサマ・ラウィのカメラが捉えた寒々とした内乱地域の描写も記憶に残る。
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