ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

「ゆる山」さんと雲霧霞雨之介の、神坂・富士見台山行 その4:山を下る道で風穴に立ち寄る。

2022-08-28 04:07:47 | 草花
今年の夏は、朝晩ともきっちりと晴れ上がったことの無い、ややこしい日々が続きましたが、気温だけは高い日が相変わらず続いています。
この調子ですと、もう一か月くらいは我慢を強いられる日々が続きそうですね。
やかましく鳴いていたクマゼミの鳴き声がいつの間にか間遠になり、偶にツクツクボウシの声が聞こえるようになりました。
夜になると枕辺でコオロギの音色が聞こえて来て、秋の気配が密かに忍び寄ってはいます。
庭先で毎晩一夜花を咲かせ続けて呉れたユウスゲの花も最後の蕾と思しきものとなり、これで今年の花は終わりになりそうです。
7月19日の初花から始まり、合計で230輪を超える花を魅せてくれたことになります。
中秋の名月は来月の10日ですが、夕涼みがてら良い月を見られると良いですね。

23日午前05時06分:南木曽岳 ↓

先日田中陽希さんが三百名山か何かで、この山を歩いている番組を見たばかりでした。この山も眺めの良い山だったように記憶しています。



05:19分 日の出の方向 ↓

この場所での日の出タイムは05:05分頃の筈で、日輪はもう空に浮かんでいるはずですが、雲が邪魔して見えて来ません。

幸いなことに雨は降ってこないので、この山頂に1時間以上の長きにわたり、留まって、山岳眺望が得られないかと待ち続けましたが、それも叶えられませんでした。


已む無く近場の笹原を撮ります。 ↓ ↓

左端は神坂(みさか)山です。





恵那山は雲の中 ↓

「ゆる山」さんの背後にはでっかく恵那山があるのですが、雲に隠されて全容が見えることはありませんでした。

これ以上は天気の回復を望めないようですので、小屋まで戻り、朝食をとります。


「黄金の御殿」とお暇 ↓

立ち籠めるガスの中でお世話になった「黄金の御殿」たる神坂避難小屋にお暇します。(水洗トイレ使用協力金は百円でした。)

下りは荷が軽くなったこともあり、誠にあっけないものでした。

萬岳荘 ↓

いつかはお世話になることもあるかもしれない萬岳荘の建物をぐるっとひと回りして、車に戻ります。

このあと、車で山道を下っていきますが、岳麓近くの「風穴」に寄ります。 ↓


神坂の風穴 ↓  (この風穴に関する記述と養蚕業に関する記述は、現地の看板書きや、ネット記述のコピペです。)

  神坂の風穴は自然の地形を利用した蚕の卵(蚕種)の冷蔵貯蔵石室のことです。
  標高約1000~1400mの間の神坂峠西麓一帯に約30基の石室がありました。
  蚕種が全国に向けて出荷され、生産は全国一の規模と言われていました。
  この風穴の大きさは、横6.5m 奥行き5.7m 内部石垣高さ4.1mで、平成18年度  に石垣の修復を行いました。


風穴の構造

  冷たい地下水が湧き出す山の斜面上に4方を石垣で囲った風穴は、屋根や壁、
  入口が二重に作られ、冷気を保つための工夫がされていました。
  春から秋にかけては、一日の中でも気温の変化が少なく、石室内の温度は
  12℃以下に保たれていました。


風穴の利用 ↓

  神坂(三坂)風穴は、明治6年に神坂霧ヶ原の早川万蔵氏が三坂御料地(今の湯舟沢国有林)に、風穴のある事を突き止め、 
  御料地の借地に着手し、明治16年に万蔵氏の子の早川治郎八氏が御料局の許可を得て石室を創設し、試験的に蚕種を貯蔵 
  したのが始まりで、その後順次造営され、明治42年の統計調査では、神坂(三坂)の風穴は30基、所有者は21名と言われてい 
  ます。
  風穴の出現で、年間の飼育が1回から5回に伸び、養蚕、生糸産業は飛躍的に発展したとされています。
  風穴蚕種の貯蔵能力は最大で200万枚で、最盛期には全国の3分の1を占めていたと
  伝えられ、全国に神坂(三坂)の風穴が知れ渡りました。
  
  この風穴の利用年数は定かではないが、大正末期頃までのほぼ40数年続いたとされ、大正13年に中津町でアンモニア式冷蔵庫 
  が建設されると、以後、風穴は衰退の道をたどっていきました。


かつて養蚕業は日本の主要産業であった。 
養蚕業(ようさんぎょう)は、カイコ(蚕)を飼って、その繭から生糸(絹)を作る産業である。
養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し、繭を生産する。繭を絹にするために製糸工場で繭から生糸へと加工され、生糸をさらに加工して絹織物などの繊維になる。

江戸時代には、民間において様々な養蚕技術書が出版された。
著名なものとしては、1803年(享和3年)に上垣守国が『養蚕秘録』を出版した。
この書は国内外で高く評価された。
シーボルトによって同書は持ち出されて『Yo-san-fi-rok』として翻訳されている。
また、1840年(天保11年)には中村善右衛門が当時の新技術である体温計を応用して『蚕当計』を考案し、『蚕当計秘訣』を発行した。
この技術は当時は勘などに頼っていた養蚕を、温度管理によって安定させる『温暖育』の普及によって改良することになった。

日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。
農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである。
もうひとつの背景としては、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病(微粒子病)の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。
ヨーロッパにおける養蚕業の衰退によって、1900年頃には日本は中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になったのである。

その頃の養蚕業の隆昌と、ここの神坂の風穴による蚕種の貯蔵・出荷が見事に重なって来ます。


風穴の石組 ↓ ↓


コメント (6)
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