#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【bozzo】0325×40=40

2009-03-25 | PHOTO
3月25日。
くもり、時々雨。
風が冷たい。

花冷え。
…とも云わないか。

0325。
ステキな数字合わせだ。

0325×40=40。
40回目の0325。

振り返ると、怖ろしい。

インドへ行ってる友だちから
ベナレスの近況が送られてきた。

     ●

 それに、こんなにも目の前に、日常に死というものが存在していると、
 怖いとか悲しいとかそういう感情は不思議と生まれてこない。
 目の前で焼かれる死体をみても、人は結構それを当たり前のものとして
 受け入れることができるのね。不思議だけど。

 死んでいかないと、この世は続いていかないよ。
 と昨日インド人が言ってた。
 ここで最後を迎えるヒンドゥー教徒は幸せで
 みんな笑顔で家族と手を叩きお祝いしながら死んでいくんだって。
 生まれて、生きて、死んでいく。
 そのシンプルなサイクルを見せられる。おもしろいよ。

      ●

ここは輪廻転生の終着地。

死して荼毘に付され、遺灰となって川に流されれば、
やがて新たな生命となって蘇生する。

人間はどこまでも生きることに貪欲なのか。
その証拠に、ベナレスの火葬場ガートのすぐそばには
千の交接体位を朱色の柱に浮彫した愛の寺院がある。

 すべてが浮遊していた。というのは、多くの最も露わな、もっとも醜い、
 人間の肉の実相が、その排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、
 天日のもとにさらされ、並の現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。
 ベナレス。
 それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、
 朱色の柱にありとあらゆる性交の体位を黒壇の浮彫であらわした愛の寺院、 
 ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、
 おとなう人、死んでゆく人、死んだ人たち、瘡だらけの子供たち、母親の乳房に
 すがりながら死んでいる子供たち…、これらの寺々や人々によって、日を夜に継いで、
 喜々として天空へ掲げられている一枚の騒がしい絨毯だった。

                 「天人五衰~暁の寺~ 三島由紀夫」


「死んでいかないと、この世は続いていかないよ」
まさに動的均衡。…留まってしまったら崩壊してしまう、砂上の楼閣。

だからこそ、死して新たな生を渇望できるのだろう。

そこに個体の意志はない。個体の概念はない。

⇒それがニュートラルの境地というものなのか。

      ●

写真は、甥っ子「悠真くん」の父、つまり弟。
ここに血を分かつ者がいる。







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