#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Jun_04】僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に 激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。

2020-06-04 | BOOKS&MOVIES
アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。
ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、
ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、
最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。
この人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、
僕たちは彼らになら共感することが出来た。
僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に
激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。
まさにそれゆえに僕たちは
アメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱く事が出来た。
反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、
これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことが出来る。
自分たちの祖先がネイティブアメリカンの土地を強奪したこと、
奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと、
それを口にすることが出来る。
そのような恥ずべき過去を受け入れることが出来る
という「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

国力とは国民たちが
「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」
というセルフイメージを持つことで増大すると言うようなものではありません。
逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。
失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、
正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。
国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。
失敗したときに補正できる力のことです。
でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことが出来るのは、
しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。
僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。

(『サル化する世界〜比較敗戦論のために』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。


#photobybozzo
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【Jun_04】今の日本の英語教育は 「母語の檻」からの 離脱など眼中にない。

2020-06-04 | BOOKS&MOVIES
外国語を学ぶのは
「日本人なら誰でもすでに知っていること」
の檻から逃れ出るためだ
という発想がみじんもない。
母語的な現実、
母語的な物の見方から
離脱すること。
母語的文節とは
違う仕方で
世界を見ること、
母語とは違う言語で
自分自身を語ること。
今の日本の英語教育は
「母語の檻」からの
離脱など眼中にない。

(『サル化する世界〜AI時代の英語教育について』より内田樹)

「今さえ良ければいい」というのは時間意識の縮減のことである。
平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。

「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる
自己意識の未成熟「今さえ良ければ、それでいい」のことであるが、
「自分さえ良ければ、他人のことはどうでもいい」というのは
自己同一性の空間的な縮減のことである。

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。
「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。
だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。
「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると
自己利益が増大するかどうか」を自らに問えば良いのである。

(『サル化する世界〜サル化する世界』より内田樹)

その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりも
むしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。

「制度がある限り、ルールに沿って制度は粛々と運用されるべき」
だという形式的な議論に私は説得されない。
それは「そもそもどうしてこの制度があるのか」という根源的な問い
のために知的リソースを割く気のない人間の言い訳に過ぎないからだ。

(『サル化する世界〜死刑について』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。


#photobybozzo
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする