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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【May_07】人間は、生き物の死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる、一本の弱いチューブである。

2020-05-08 | BOOKS&MOVIES
藤原辰史『戦争と農業』。
いかに現代が食を過小評価し、邪険に扱ってきたか。
生活の重要な行為として、食に敬意を払わずおざなり過ぎたから、
このような社会形成と政治形態になってしまったのだと。
そもそも食を安易に捉えすぎ。
小学校の給食が、短時間で済まされていたことが間違い。

すべての国民が、小学校時代は午前中いっぱい毎日その日の献立と、
その食材のルーツ、収穫の方法を学んでいたら、
もっともっと現代社会は、遅効性を規範とした仕組みで成立していたことだろう。
教育における食が低レベルだから、この現代社会が低レベルなのだと、断言できるわ。

今からでも遅くはない。
コロナ禍で引きこもり生活だからこそ、
食のあれこれを深く考え実践し、
食に思いを馳せて欲しい。
然れば、自身がふたつの穴を持つ1本のチューブで、
様々な生命の亡骸からおこぼれをもらい、
沢山の微生物の働きで生かされているのだと会得することだろう。

以下コピペ。

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つまり、食べるというのは、宇宙を身体に貫通させると言ってもいいくらい、壮大な行為なのです。
しかも、人間は食べているとき、孤食であっても孤独に食べているのではありません。
ほとんど意識していませんが、人間は腸内に100兆個の細菌を育てています。
人間は細菌にとっては生態系です。
その細菌に食べかけのものを分解してもらい、消化を助けてもらう。
ここで起こる化学反応はハイスピードです。
そうした変化が即興的に繰り広げられる世界は、幽玄な機能美にあふれています。


↓↓↓

だったらせめて、人間のみなさんは、
消毒、殺菌、滅菌に血道を上げるのではなく、
細菌にとって棲み心地の良い家を提供するのが筋ではないでしょうか。
食べることは人間が育つことであるとともに、人間の生態系を育てることでもあります。
噛んで、味わって、飲み込むあいだに、生き物たちの死骸との駆け引きをうまくやらないと、
細菌たちはびっくりして活動を停止します。
既に述べたように、遅効性とは、誰かに効果を任せることでもあります。
誰かとはこの場合は腸内細菌です。
食べることは、ガソリンのチャージではありません。
食べることは、生き物たちの亡骸に自分の身体を通過してもらい、おこぼれをいただくことです。
いろんな種類の死骸に囲まれながら、食べ物は新しい世界へと旅立っていきます。
言い換えると、食べることは、それほど人間主導的な行為ではなく、
世界に自分を育ててもらう現象にほかなりません。


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食は、身体を通過する現象。農業は、助ける行為。教育は、見守る行為。
このように幅広く食と農業と教育の定義を拡げていくと、
これまでの講義で述べてきた大規模、大量生産、効率主義、即効性によって満たされた
マニュアル型の食と農業の生産様式が、そのまま子どもの「育成様式」と酷似していることがわかります。
経済的にゆとりのある家庭が、夜間にまで及ぶ受験塾に多額の授業料を払い、
苛烈な受験戦争に子どもをさらし、学問の営みを訓練に変え、
創造の能力よりは、情報処理の能力の得意な人間が高学歴を得て、政治と経済の中枢に坐る。
日本の教育の仕組みは、まさに、現在の食と農業が直面している状況と大きく変わりません。
人間の育成がこういう仕組みでなされているのであれば、
なぜ、政治が話し合いではなく処理になってしまうのかさえも、理解することができます。
ゴルフ場を開発したり、企業誘致をしたりすることばかりに目がいく地方活性化のアイディアの貧しさも、
このあたりから生じてきているのかもしれません。


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食と農業の再定義は、
効率主義による不公平な競争の仕組みを変えていく足がかりになるかもしれません。
飽食と飢餓が同時に存在するいまの状況を根本から疑い、
食本来のあり方をもっと引き出していきたいと思います。


↓↓↓

餓えない民の民主主義、排除なき民主主義というものは今まで存在したことがない。
誰かが切り捨てられることは未だに無くならない。
けれども、発酵の世界は、そういった政治のあり方にヒントを与えてくれます。
発酵を知ることは、自分たちがどれほど多くのものに生かされているかを知ることです。
生き物が複雑に絡み合いつつ跋扈する世界を、
人間の超越した力で牽引するのではなく、
じっと待ちながら「切り盛り」するという世界が、発酵革命の基本理念であると思います。

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