早池峰神社
祝祭の中で、人は神になる_。
ダンサー石原夏実さんとのつながりで、初めて舞手の側から神楽を堪能してきました。
場所は遠野市大出地区。霊峰早池峰山のふもとにある、早池峰神社での宵宮と例祭を密着。
夏実さんの他に東京から上本さん、三浦さん、岡山から小谷野さんが踊り手として参加。
そのすべてを取り仕切るのが千葉さん一家。神楽伝承者鈴木さんの下、舞を奉納します。
演目は1鶏舞→2鞍馬天狗→3八幡舞→4五穀舞→5岩戸開→6天女舞→7権現舞。
あいだに鱒澤神楽と平倉神楽の客演がはいり、およそ5時間に及ぶ奉納となりました。
神の言葉、神の動作を「真似」し、反復を重ねることから芸能が生まれる。
ゆっくりと旋回しながら「舞う」女たち、そこから垂直に飛び上がり大地を「踏む」男たち。
水平の運動と垂直の運動が交わるところに舞踏が生まれ、音楽が生まれる。
「自己」という固有性は消滅し「神」という普遍性が出現する。
だからこそ、「神」となって舞踏するために人は仮面を被るのだ。
仮面は「自己」という固有性をあとかたもなく消滅させてくれる。
仮面をつけた瞬間、人は神になり、神は人になる。
そして神の言葉と、神の動作を「真似」し、徹底的に反復する。
過剰な反復によって、祝祭の場では、オリジナル(「翁」)とコピー(「もどき」)、
本物と贋物、悲劇と喜劇の区別が消滅してしまう。芸能によって、人間は宇宙に開かれた存在となる。
度重なる芸能の反復とともに、聖なる宇宙樹を通して天上の世界と地上の世界は一つにつながり、
始まりと終わりをもった地上の有限の時間は、円環を描いて永遠に回帰する天上の無限の時間と交わる。
人間は人間の限界を超えて、神的な領域まで到達する。
そのとき神は自然そのものとなり、大宇宙の運行と区別がつかなくなる。
祝祭は人間を宇宙的な存在に変えるのだ。
【安藤礼二著「折口信夫」より】
神であり人である「マレビト」の来訪…それはつまり神の権現であり、人間が自然と一体化すること。
畏れ多い畏怖すべき存在の神=自然に融合するとは、禍災を起こす厭わしい存在の自然に対立するのではなく、
一体となって災害を鎮め福へ転じようという、四方自然に囲まれた日本人の智慧であったのだと、思います。
神楽最後の演目「権現舞」はそのことを物語っていました。
大いなる存在と同化し【禍福は糾える縄の如し】と達観する姿勢は、自然に対立するのではなく、
自然と対話し自然を知り、自然をわが身に取り込むということ。
四肢の感覚を研ぎ澄ませ、ちょっとした変化にも反応し、
風の向きで天気を読み、獸の匂いで獲物を捕らえる…鋭敏な感性の持ち主が日本人であったと、ボクは思うのです。
この対立項をつくらない相手を取り込む姿勢が、本来の日本人の生き方であったと。
それが明治の文明開化以降、「世界」に追い付き追い越せと鼻息荒く虚勢を張り、
大国の仲間入りこそが日本の将来を拓くと豪語し、
その結果が寄らば大樹の対米隷属と安保法制定へとつながっているのではないかと。
貴い智慧はどこへ行ったのでしょうか?
喪われた150年。あまりにも無惨過ぎます。
遠野の神事は、その事実を語らずに体現してくれたと思いました。
早池峰、岩手、有り難や。「マレビト」論、この拠り所に今後もう少し分け入ります。
祝祭の中で、人は神になる_。
ダンサー石原夏実さんとのつながりで、初めて舞手の側から神楽を堪能してきました。
場所は遠野市大出地区。霊峰早池峰山のふもとにある、早池峰神社での宵宮と例祭を密着。
夏実さんの他に東京から上本さん、三浦さん、岡山から小谷野さんが踊り手として参加。
そのすべてを取り仕切るのが千葉さん一家。神楽伝承者鈴木さんの下、舞を奉納します。
演目は1鶏舞→2鞍馬天狗→3八幡舞→4五穀舞→5岩戸開→6天女舞→7権現舞。
あいだに鱒澤神楽と平倉神楽の客演がはいり、およそ5時間に及ぶ奉納となりました。
神の言葉、神の動作を「真似」し、反復を重ねることから芸能が生まれる。
ゆっくりと旋回しながら「舞う」女たち、そこから垂直に飛び上がり大地を「踏む」男たち。
水平の運動と垂直の運動が交わるところに舞踏が生まれ、音楽が生まれる。
「自己」という固有性は消滅し「神」という普遍性が出現する。
だからこそ、「神」となって舞踏するために人は仮面を被るのだ。
仮面は「自己」という固有性をあとかたもなく消滅させてくれる。
仮面をつけた瞬間、人は神になり、神は人になる。
そして神の言葉と、神の動作を「真似」し、徹底的に反復する。
過剰な反復によって、祝祭の場では、オリジナル(「翁」)とコピー(「もどき」)、
本物と贋物、悲劇と喜劇の区別が消滅してしまう。芸能によって、人間は宇宙に開かれた存在となる。
度重なる芸能の反復とともに、聖なる宇宙樹を通して天上の世界と地上の世界は一つにつながり、
始まりと終わりをもった地上の有限の時間は、円環を描いて永遠に回帰する天上の無限の時間と交わる。
人間は人間の限界を超えて、神的な領域まで到達する。
そのとき神は自然そのものとなり、大宇宙の運行と区別がつかなくなる。
祝祭は人間を宇宙的な存在に変えるのだ。
【安藤礼二著「折口信夫」より】
神であり人である「マレビト」の来訪…それはつまり神の権現であり、人間が自然と一体化すること。
畏れ多い畏怖すべき存在の神=自然に融合するとは、禍災を起こす厭わしい存在の自然に対立するのではなく、
一体となって災害を鎮め福へ転じようという、四方自然に囲まれた日本人の智慧であったのだと、思います。
神楽最後の演目「権現舞」はそのことを物語っていました。
大いなる存在と同化し【禍福は糾える縄の如し】と達観する姿勢は、自然に対立するのではなく、
自然と対話し自然を知り、自然をわが身に取り込むということ。
四肢の感覚を研ぎ澄ませ、ちょっとした変化にも反応し、
風の向きで天気を読み、獸の匂いで獲物を捕らえる…鋭敏な感性の持ち主が日本人であったと、ボクは思うのです。
この対立項をつくらない相手を取り込む姿勢が、本来の日本人の生き方であったと。
それが明治の文明開化以降、「世界」に追い付き追い越せと鼻息荒く虚勢を張り、
大国の仲間入りこそが日本の将来を拓くと豪語し、
その結果が寄らば大樹の対米隷属と安保法制定へとつながっているのではないかと。
貴い智慧はどこへ行ったのでしょうか?
喪われた150年。あまりにも無惨過ぎます。
遠野の神事は、その事実を語らずに体現してくれたと思いました。
早池峰、岩手、有り難や。「マレビト」論、この拠り所に今後もう少し分け入ります。