bozzo_photo_exhibition
「四谷の湿った放屁」
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綜合藝術茶房 喫茶茶会記
_Jun.13-18.2014
茶会記での展示の話をいただいて、「じゃあ四谷で撮ろう」と思ったきっかけは、
中沢新一さんの「
アースダイバー」という本。
中沢さんにはいろんな局面で影響を受けているもっとも好きな学者のひとりなのだけど、
この本には、縄文時代における土地の成り立ち…堅い土の洪積層と砂地の沖積層の記憶が
現代の東京にどれだけの影響を与えているか、という話が満載で、
特に【四谷】という土地が稀に見る高低差でもって、
昔から差別被差別の貴賤を“土地柄”的に下支えしていた…という事実に驚愕したからだった。
土地が放つ「湿った屁」を体感してみよう。
「策の池」や「鮫河橋」といった沖積層の場所は、
昔から湿り気を帯びていて、策の池のまわりは花街として、
鮫河橋のあたりは東京随一の貧民窟として猥雑さを極めたのだけど、
そういった「湿り気」はいま現在もモヤモヤと揺らめいていて、
感情が不安定になったり、下半身が覚束なくなったり、する。
逆に「於岩稲荷」や「迎賓館」のある洪積層の場所は、
地盤がしっかりしていて汚水も下へ下へと流れる高台だから、
なんというか四角四面な外面の印象。
そういった乾いたところでは、人間も落ち着かなくなるのだろう、
於岩稲荷には井戸が、迎賓館のあたりには噴水が設置されていて、
適度な「湿り気」を取り込む工夫が見えたりするのだ。
連綿と続く土地の記憶、土地の「放屁」…
そんな言葉にならない、目に見えない、貘とした要素を、
近代以前、資本主義社会形成以前まで、人は共有していた。
しかし、資本主義台頭によるカネ本位の、経済至上主義の時代となると、
土地の記憶、土地が放つ「屁」は無視され、カネ単位の均質な商品として市場で売買されていく。
資本主義はすべてを均質化する。
見渡してみるがいい。
郊外タウンの無機質さを、スーツで闊歩するビジネスマンたちを。
資本主義…それは、土地も労働も市場原理で捌くシステム。
明治維新から150年、産業革命から200年、均質化の波は隅々まで行きわたり、
土地も人もどんどん無機質へと流れてしまった。
資本優先のシステムはさらに、人を置き去りにし、国を形骸化し、
ブルドーザーのごとく均質化を徹底するだろう。
残るのは、誰が資本を獲得するか…の、争いだけ。
今の安倍政権は、まさに
資本主義の権化として、戦争へ邁進している。
かつて第二次大戦という大きな戦争が、あった。
たかだか68年前の話だけど、あの戦争も経済の不均衡がもたらしたモノ。
ナチスがユダヤ人を目の敵にしたのも、言ってみればカネの獲り合いを優位に進める口実。
土地を均質にし、労働を均質にする…ということは
無銘性を押し進めること。
土地の記憶、土地の名前を奪い、人の記憶、人の名前を奪うのは、資本主義の均質性ゆえ。
人をモノとして処理する
ホロコーストは、資本主義の成れの果てなのである。
この因果関係を、私たちは、もう記憶に留めていない。
【四谷の湿った放屁】
それは、土地の放つ「湿った屁」を感じろ、
人が放つ固有の「屁」を嗅ぎ分けろ…のメッセージである。