#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

punctumとstudium

2006-10-20 | memories
もう少し、写真について考えてみる。

なぜ、写真を撮るのか。

目の前の情景を記録することで、自分のポジションを確認する行為。
この不確かと感じる「生きている世界」を平面に焼き付け、再確認する行為。
     世界を記録することで、自分の存在を知る。

むずかしい言葉で言いくるめても仕方ないか。

        ●

ボクの写真体験は小学生まで遡る。
大阪に移り住んで、京都が間近になり、
毎週末、家族で京都を訪れる機会が増えた。

悠久の時が刻まれた寺院や庭園を、
しっかり家族の記憶に収めようと、父はカメラを手にした。
購入したカメラは、当時はやりの「バカ○○ンカメラ」である。

機械に興味を持ち始める年頃だったボクは
自然と写真係を買って出た。

そんなある日、京都の寺院を散策しながら撮った家族写真とは別に、
たまたま収めた暖簾の写真がとても印象的に上がってきた。

そこでボクは学習する。「見た印象と写真にはズレが生じる」ことを。
同じように目に映った情景も、構図や光の取り方で伝わる印象が変わる…。
…幼いボクは写真の魅力を発見した。

それからというもの、格好いい写真を追い求めて、
カメラを構える時代が、大阪を離れるまで続く。

住まいを東京に移してからは、反抗期で音楽に目覚めたこともあり、
しばらく写真から遠ざかるのだが、レコードのジャケットを眺める目は、
グラフィックな魅力に取り憑かれていた。

大学に入って、本格的に写真と対峙してからは、
写真行為は、自己発見への手段となっていく。
セルフポートレイトを長時間露光で収めてみたり、
高架下の陰湿な情景ばかりをトリミングしたり…。

「死」を写真に投影することで、自己の危うい存在をカタチにしようとしていた。

そして今、やはり「写真」は自己確認の手段として、ある。
切り取る世界は、軽快になったフットワークのおかげで拡がってはきたが、
あいかわらず写し込まれた自分のポジションばかりを気にしている。

どうやら「存在」が稀薄なんだ…と思う。
推し進めて言えば、「存在」が稀薄でありたい…と思っている、のだ。

「世界」と「自分」の距離を計る手段と称して、
正面切っての対立を回避している…自分がいる。

いつまでたってもモラトリアムの域を出ない。

その域をつなぎ止めるための写真であるような…気がしてきた。

自家撞着に陥ったか。

※「punctumとstudium」とは思想家ロラン・バルトが説いた写真言語で
 studiumとは、道徳や習慣、教養に基づいた一般的に共有される事象のこと。
 punctumとは、個人的な経験を喚起させる言語化不可能な事象。
 幼いボクが感じた写真の面白さがここにあると言っていい。
 寺院にかかった暖簾(studium)から言葉にならないイメージ(punctum)が湧き上がってきた。
 トリミングされ平面化された写真は、現実を再構築し、呈示するのだ。
 





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