幡多に関連して、「可知」も、また、秦からの帰化人が多く住んでいた所だというのです。この幡多小学校からは南東約8km位もあるでしょうか、ここにも岡山市立可知小学校があります。赤穂線の大多羅近くにあります。
この「可知」は和名抄に「上道郡可知郷」が見え、幡多と同じく仁徳天皇の時代に、この旭川東岸の開発にあったた秦からの帰化人が拓いた土地だと思われます。
では、この「可知」がどうして秦人と関わりがあるのかと言いますと、やはりこれも日本書紀からですが、雄略天皇の条に出ています。
「・・・・賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝部。奉献庸・調御調也絹・縑。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。」
秦の民が日本に来て天皇に仕えたというのです。其民を秦の酒公(さけぎみ)に賜わります。その結果、その人が喜んで百八十人ぐらいの勝部(かちべ)〈すぐりべ〉を引き連れて、絹やその織物などを朝廷にうずたかくなるほどいっぱいに献上したのだそうです。それ以後この人達を、うずたかくなるぼどに絹をいっぱいに積みあげた人と言う意味で<うずまさ>と呼んだというのです。
ここに出てくる勝部(カチベ)を「秦」「半田」「幡多」「葉田」等ど言う名前と一緒にして、即ち、秦人をこう呼んでいたのです。それが「可知」と、何時からかは分からないのですが、呼ばれるようになったのだそうです。大多羅もやはりこの秦人達とのなんらかの関わりのありそうな地名だと思われます