私の町 吉備津

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福治と鉄の生産

2010-12-25 20:26:25 | Weblog

 岡山市福治にある字名に「山守」ですが、吉備の鉄造りと関係があるのではないかと言ってきたのですが。その元になると思われるのが、「福治」と言う地名です。この「福」、そうです、「ふく」です。是は一体何を意味しておるとお考えですか。

 吉備の国にある「ふく」は、総て「吹く」に通じると思われますです。「真金吹く」の「吹く」、即ち、鉄を作る時に送る風に通じるのです。
 
 動詞の連用形の言葉は、しばしば名詞化された言葉として普通によく使われている例をたくさん見る事が出来ます。例えば「笛吹き」となると名詞化された言葉として通用しますが、終止形「笛吹く」となると、もはや名詞となる独立した言葉としては使われれずに、動詞としてしか使えないのが普通です。
 しかし、この吉備ではどこに行ってもよくお目にかかる「ふく」と言う言葉だけは、例外的に、終止形で名詞化されて使われているのです。その代表的な例が、吉備の枕詞にある「真金ふく」です。この「ふく」がこの吉備一帯では動詞としてでなく、名詞としての使われている場合がたくさん見えられるのです。
 まず、吹屋をみてみましょう。この場合は「ふき」で、連用形です。普通のすんなりとした名詞化された言葉で、問題はないのです。しかし、我が吉備津周辺には、この「ふき」でなく、終止形「ふく」が付いて名詞化された言葉として使われている地名が多く見られます。
 「福岡」「福崎」「福山」「福島」福濱」「福谷」「福原」「福地」「福井」、さらに、面白いのは「福井」をさかさまにした「伊福」と言う地名すらもあります。これらの地名は総て、その昔、鉄を生産していた土地を意味しているのだと思われます。吉備の至る処にこの「福」と言う地名が現在まで残っているのです。それぐらい吉備のどこでも鉄が作られていたという証拠なのです。

 九州にも「福岡」があるではないかと思われるかもしれませんが、一遍上人伝絵巻にある、備前福岡の町人を、この福岡生まれの黒田半兵衛が、そこの城主に任命されたため、強制的に根こそぎ連れて行って、従来あった博多の一画に新しい町を造り、そこを古里の名を取って「福岡」と命名しただけの事なのです。ですから、この筑前の福岡は、もともとは吉備生まれの鉄の生産にかかわる地名だったのですが、今ではあたかも昔からそんな名前がそこにあったかのような顔をしているだけに過ぎません。元々の町の名前は「博多」なのです。何も筑紫と福岡はいささかなる関係もなかったのです。

 さて、話がとんでもない所に行ってしまったのですが、この「福治」ですが、これは「鍛治」に通じます。「福」は、元々、鉄を生産するための大切な設備、鞴(ふいご)を意味する「吹く」です。「治」は「経営する」「うまく扱う」と言う意味があります。だから鉄を生産するために上手に処理できる土地と言う事で、この地名が付けられたのではないかと推察しているのです。


備前山守部の消滅と吉備の衰退

2010-12-25 10:06:22 | Weblog

 岡山市福治に「山守」の字を持つ所があります。この「山守」は、「山守部」と言われる応神天皇の時に作られた「広く山全体を守る職」を司る部民ですが、その一族がこの地に住んでいた所だろうと推定されます。
 この備前に置いた山守(やまもり)部ですが、どうも、当時、吉備の国が持つ、最っも大切な産物、そうです、「鉄」ですが、その生産から販売までの一切を管理もしていたのではないかと思われるのです。この製鉄の技術を持っていたと言う事が、大和を中心とする天皇と対等な勢力を持つことになるのです。だから、大和政権は、備前の持つこの強大な勢力を、どうにかして分散させようと図ります。まず、やったのが、備前を2つに分け「美作の国」を作り国力を弱めます。

 そんな時に起こったのが、と言っても、5世紀の後半に入ってからですが、一つの大きな皇位を巡る戦いが起ります。
 それが雄略天皇の死後の皇位を巡っての、朝廷内の権力闘争だったのではと思いますが、争いなのです。上道の臣の女「稚姫(わかひめ)」が生んだ星川皇子と韓媛の王子白髭との戦いになるのです。これも大和勢力中枢が吉備勢力衰退を考えて謀った陰謀ではないかと言う人もおります。
 丁度、その時代には、これは歴史にも何も書かれているわけではありませんが、どうも吉備の国でも、2大勢力だった上道と下道が対立していてお互いに仲たがいをしていて、十分な両者の間の意志の疎通が出来ていなかった時代のように思われます。その2つの吉備勢力の対立を見越しての大和の吉備に対する勢力の衰退を図る絶好のチャンスとばかりに仕掛けた陰謀ではないかと思われるのです。

 この戦いの結果、吉備の国の勢力は極端に弱まり、大和の勢力の中に完全に飲み込まれてしまう結果になるのですが、その一つを福治にある「山守」という地名の中から読むことが出来るのです。この遺名は「備前の山守部」の職を大和に奪われ、吉備の鉄作りが制限され、その力を消滅させられて行った過程を、何かその背後にある芥子山と共、現代の我々にそこはかとなく物語ってくれているようでもあります。

 

 なお、この5世紀の後半と言いますと、(両宮山古墳が出来るのは5世紀前半です)日本一を誇る伝仁徳陵である大山古墳が作られています。その頃から吉備の国には、もう、100mを超すような大きな古墳を作るだけの余裕は残ってはいなかったのです。その勢力は、完全に衰退してしまい、歴史の主役として活躍する吉備に再び戻る事がなかったのです。この星川皇子の反乱を契機にして、吉備は、普通の国になって、日本の歴史の表舞台の中からは完全に姿を消してしまいます。