私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

幡多という地名

2010-12-18 12:55:14 | Weblog

 今回の過ちは「震撼たらしめる」という程の大仰なものではなかったのですが、筆敬氏からの忠告もありましたので、もう少し「秦」からの我が国への帰化した人の事を探ってみます。

 その一つが「幡多」についてです。秦・葉田・半田・土田など、これらは総て<はた>と呼ばれていた地名です。古事記に「仁徳天皇は、秦からの帰化人を使って茨田堤、丸邇池、掘江などを作らせた」と、あります。この秦人が土着した所を「幡多郷」と呼んでいたのです。これは「河内」での事ですが、それが、この「備前」にも、やはり、この河内にあるのと同じ「幡多郷」と呼ばれていたいた所があります。

 現在、岡山市高屋にある「幡多小学校」と言う校名となって残っている事からも分かるように、この辺りも、仁徳天皇時代に秦人達が住みついて「幡多郷」と呼ばれていた地域があったのです。秦からの帰化した人々を使って旭川の東岸一帯の土木事業に携わっていたのではないかと考えられています。

 これはどうも真実味が欠けるようには思われるのですが、この地が、日本書紀にある応神天皇が行幸された葉田の足守宮で、高屋はその御所があった所だと言う人もいるようです。なお、この旭川を渡るとすぐの山が、例の半田山もあります。

 又、横道にそれます。「和気絹」と言う本によりますと
 この半田山は、その昔は浅山で、萩すすきの他に木はなかったのだそうです。しかし、この地に来た秦の人が、松数本を植えたのだそうです。その松の木が大木となって「植松」と呼ばれたのです。だから、その山も、最初は「秦山」だったのですが、いつしか「半田山」となったのだそうです。
 なお、はっきりしたことは言えないのですが、この半田山の下辺りに、(法界院辺りのではなかったのでは)どうも「植松」と言うがあったように記憶しているのですが、どうでしょうかね????????
 

 こんな話も「幡多」と関連して今に伝わっています。なお、高屋には「土田(ハタ)」と言う字名を持つちめいもあります。また「可知(カチ)」という所もあり、これもまた、秦との関連のありそうな地名なのです。