私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備の国の勢力は大和より上か??

2010-12-21 20:02:04 | Weblog

 紀元前後の日本には中国本土からや朝鮮半島の人たち帰化人が活躍します。新しいそれまでに知らなかった新しい文化を、彼らを通して日本に取り入れるのに当時の人たちは躍起になったのではないかと思われます。土木事業に関わること、堤防・池・用水路などの干拓に関する墾田の開発事業が多かったのです。大きな河川の下流に広がっていた三角州やその周辺に広がっている葦原や草原の耕地化です。大和川も旭川など岡山の川は勿論のこと、西日本の沢山の河川の三角州が耕地化されたのです。岡山市可知の東に「芳野」吉原」等の地名がありませうが、これらは総て旭川の三角州に出来た葦の生い茂った未開の土地だったのではないでしょうか。この地を彼ら帰化人の手を借りて積極的に開拓して言ったのではないかと思います。それが後になり「芳(よし)」や「葦(よし)」と言う字を使って土地の名前にしたのではと思われます。

 この他、彼ら帰化人によって伝えられた技術に養蚕や絹織物があります。青銅器・鉄等の金属の冶金技術もそうです。酒作りもそうなのです。この酒作りについては。松尾明神が日本の酒作りの神様のように云われていますが、その元祖はどうも秦からの帰化人が関わっていたのではないかと言う思いまします。特に、この「秦 酒公」とう字を見ると、そんな気分にさせられうです。

 この酒公が雄略天皇から賜ったといわれる太秦(うずまさ)には大酒神社があり、この神社と、酒の神である松尾神社とは深い繋がりがあるのではないかと思われます。

 当時、彼ら帰化人の持っている先進の技術き接した天皇を初め日本の人たちが、彼らの持つ新しい文明に大いに関心を持ち、「忌寸(イミキ)」とうい姓(かばね)まで作って、それを与えるなどして、彼らの持つその高度な文化を積極的に吸収しようと努めた形跡が伺われます。

 と云う事は、その高度な文明を吸収するだけの国力と言いましょうか、それを受け入れるのだけの十分の力が大和や吉備の国だけに備わっていたという事です。何故それが安芸の国ではなく、吉備であったのかと言う事はよくわからないのです。だから、帰化人たちもどんどんこの吉備に定着したのではと思われます。
 地理的には、大陸や半島と近いという関係で、九州と同じように、地理的条件からすれば安芸の国も、日本の古代史の中に出てきても当然のように思われるのですが、吉備だけがどうして表に出てくるのか分かりません(記紀から)。それだけ、当時の日本に置いては、大和と吉備の関係は覇権を争う2大勢力だったのでしょう。播磨も讃岐も伊予ももしかして肥後の国までが、と言う事は九州辺りにまで吉備の勢力圏に取りこまれていたのではないでしょうか。
 それぐらい大きな勢力範囲がなかったのなら、5世紀の初めに、あのような日本で最も大きな前方後円墳の造山古墳など作ることはできなかったのではないかと思われます。なお、応神・仁徳陵の古墳はこの造山古墳より約半世紀後に作られています。我田引水的な論になりましたが、念のために。