私の町 吉備津

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吉備に鍛冶部なし

2010-12-26 10:09:11 | Weblog

 「吉備に鍛治部なし」こんな言葉を、どこかで見たか聞いたかしたように思われます。この鍛治部と言うのは、みなさんも御存じの通り、鉄の生産に関わる部民ではなく、その鉄を加工して第2次製品に造り上げる、例えば刀、鎧、兜、矢じりなどを造る職責を持った人たちの集団に付けられたものだったのです。
 でも、昨日の福治の例も、そうですが、決して、吉備には「たたら」と呼ばれる製鉄施設を使って生産した鉄を、そのままにどこか他の国の加工業者である「鍛治部」に輸出だけしていたとは考えられない事です。ということは、この「吉備に鍛治部なし」となんて言うのは、ありえない事なのです。
 それでは、何故、「吉備に鍛治部なし」と言われたのでしょうか。

 私は、それについて「吉備に鍛治部なし」ではなく、「吉備に鍛治部の必要なし」だったのではないかと考えてます。
 と言う事は、昨日の「福」と言う字の付く場所、そうです。鉄を生産する場所が吉備には沢山あります。そこで出来た原料の鉄を使った、刀などの第2次産品も、当然、吉備では至る所で造られていたはずです。「鍛治」でなく「福治」からでも分かるように、吉備独自の鉄製品を製造する者は、当時の吉備の各地にいたのです。それは、吉備にある大小の古墳から、無数の兜・刀・鎧・矢じりなどの鉄製品が出土する事からでも分かります。県北部の小さな古墳からも出土の報告がなされています。
 そんな意味で、この特別な「鍛治部」と呼ばれた大和朝廷とかかわりのある鉄作りの専門部民が、この吉備に必要がなかったのです。だから「なし」ではなく「必要なし」なのです。

 私が学生の時ですが、庄司先生と言われる、まだ若い助教授だったと思われるのですが、この「たたら」を研究されていた先生がおられました。若くして亡くなられましたが、ある時です。後期の授業だったと思いますが、60日ほどの長い夏季の休みを利用させれ、中国山間部にある「たたら」についてお調べになったのでしょうか、休み明けの我々学生に、古代吉備の国の鉄の生産について、調査してきたばかりの生のお話をしてくださいました。想像を越す多数の「たたら」があったと熱っぽく語られた先生の印象が今でも頭に残っています。
 
 古代吉備の国には、それくらい沢山のたたら」があったのです。鉄があることは刀などの鉄製品が生まれていたということにもなります。その鉄を利用した農業生産も当然行われていたと考えられます。それによる飛躍的な生産性も高まり、大和勢力に負けない大きな勢力を持つ事が出来たのだろうと思われます。その上に、日本に来た秦等からの帰化人のもつ、新しい技術の導入などして更なる発展を見たのだと思います。

 その力が「記紀」にあるように神武天皇の東征で3年間(9年とも)も兵力増強のためにこの吉備に留まったという記事とも何か一脈通じるところがあるように思われます????時代的にそれが合うのかどうかは不明なのですが、ここはひとまず、本居宣長の云う「左右(かにかく)に疑はし」と、言う事で終わります。

 


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