私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備の国の漢人

2010-12-12 17:58:23 | Weblog

 漢からの帰化人については、日本書紀の応神天皇紀二十年の項に書かれています。

 これは私が持っている「日本書紀」の古い本です。

    

 その中に
 「二十年秋倭漢直阿知使主其子都加使主並率己之党類十七県而来帰焉」
 とあります。それに「ヤマトノ アヤノ アタヒノオヤ ソノコツカノオミ ナラビニ オノガトモガラ トヲアマリ ナナタリラ ヒキイテ マウキタレリ」と、かたかなのルビを符ってあります。これによると、漢から沢山の人々が帰化した事が分かります。

 更に、日本書紀では、この記事の次に、応神天皇は妃であった吉備の美女「兄媛」を慕って、葉田の葦守宮に行幸されたと、書かれています。

 この「葉田」は、即ち、「秦」ですから、その応神天皇の行幸より200年も前から、この吉備では、秦の人による活躍があったのだと思われます。そうすると、この秦の人たちが造山古墳の建設と大きく関係があるのではないでしょか。この「葉田」と云う地名から推測するに十分なる根拠ではないかと思います。なにしろ、秦の人たちです、あの万里の長城建設の立役者ですもの。

 そうするとです。話がどんどんと広がります。
 この兄媛の兄が、日本書紀によりますと、御友別(ミトモワケ)です。天皇より「吉備の国を与えられる」とあります。と云う事は、この御友別が、事実上、当時の吉備の国の国王だったのですが、それを天皇によって証明してもらったという事です。
 その吉備の国の国王「御友別」のお墓が、あの日本で4番目の大きさを誇る造山古墳だったのではないでしょうか。4世紀の初め頃だと言われます。その当時、この古墳が日本で最も大きいものでした。考えようによっては、天皇より強力な力を持っていたのではないでしょうか。もしかして天皇家より勢力的に強大であったのかもしれません。そうでなかったなら、わざわざ吉備まで天皇がお出ましになる必要はなかったのではないかと思われます。天皇の吉備への融和政策のひとつとしての行幸であったのだと思いませんか。それではあまりにも天皇家の権威が失墜するために、わざわざ、「兄媛」という美女を日本書紀の作者は造ったのではなかったかと思われます。そんな匂いが、私にはしてなりません。どうでしょうか。

 


秦からの帰化人

2010-12-11 16:43:57 | Weblog

 中国では、秦が滅んで(BC206),漢が興るのですが、その際、沢山の秦の国の人が日本に亡命してきます。その人たちが住みついた所が、現在、「秦」・「半田」などと呼ばれた土地なのです。

 吉備における「秦・半田(はた)」は、この前説明しましたが、その他、この秦に関連した地名の残っている土地があります。
 「秦・葉田・土田・幡多・半田・畑谷(はたや)・服部・八取・勝部・勝間田・勝田・可知」などが、それだと言われています。しかし、この内の「勝部」等が、どのように秦と繋がりがあるのかは分からないのですが、永山卯三郎先生はそのように書かれています。

 なお、秦が滅んで、劉備が興した漢の国ですが、約200年後、AD7年に王莾の「新」が興り、滅びます。その後、この「新」と云う国もすぐ亡ぼされ、AD23年に、光武帝が「後漢」を興します。
 その王莾によって興った「新」の国の貨幣が「貨泉」です。

                

 その「貨泉」が、先に述べた、高塚遺跡(我が吉備津から約3kmの所にある)から25枚も出土しています。
 という事は、漢の時代にも、やはり多くの漢人たちの我が国への帰化があったことは確かです。此処高塚へは「新」からの移住でだあったのでしょうか。
 

 なお、この高塚遺跡のある場所のお隣に、秦からの帰化人がいたという証拠を残す「土田」「上土田」と、呼ばれているがありますです。
 ひょっとしたら、秦が滅びてもう200年もたった時でしたが、既に、その地に定住して、安定した生活をしていた秦出身の人たちが作っていたの中に、漢からやって来た漢人(新を含む)が入り込んで来たのではないでしょうか。日本へ移住してきたこれら新しい漢人たちも、、既に、日本に確乎たる生活基盤を作っていたこの同胞者を頼って、自分たちの生活の場の確保を求めたのではないでしょうか。そして、はるばる中国から持ってきた、当時の日本では使えなかった大量の「貨泉」を原料にして、当時の日本での、まつりごとに欠かすことが出来なかった、あの高度な技術を要する銅鐸を、共同で、いとも簡単に、この地で作り上げたのではないでしょうか。
 それによって、当時の吉備地方の人々にも、これら帰化した人たちに対して、
 「あんなすごいものを作るなんてたいしたものだ。すごい人たちだ」
 と、他所者だとさげすまれることもなく、むしろ、その「すごい、なんて高い文化を持っているのだろうと」という尊敬にも似た驚嘆の評価をもって、この大陸からの異邦人を積極的に受け入れたのではないでしょうか。
 そのようにして自分たちの価値を認めさせ、新しい土地での生活の安定化を図った、これら帰化人たちのしたたかさにも、少々の驚きを掻き立てられます。

 そのまだ、弥生の世のであった当時(2000年前)の日本に、秦人が移住して200年後も経ってから入って来た「漢人たち」が住んだ場所であるとされる所が、沢山、吉備にもあります。それについて明日にでも探ってみようと思います。


「鬼ヶ嶽」と云う吉備の名勝地、知っていますか

2010-12-10 20:38:13 | Weblog

 私は今朝、知り人に連れられて、正月用の山草「ウラジロ」を摘みに「羽無(ハナシ)の金毘羅さん」へ出かけました。高梁川に架かっている水内橋を渡り、美星町宇戸谷に出ます。そこを流れる美山川に沿った渓谷が「鬼ヶ嶽」なのです。かっては「神庭瀑」「鷲羽山」と共に岡山県の3大名勝地として名を馳せていたのですが、近ごろ、とんと、その名さへ聞かなくなってしまいました。交通的な不便さもあってのことでしょうが。

 この地は江戸の昔。松山藩主板倉摂津守が封内第一の勝景なりとして、毎年この地に内外の貴賓を招いて観覧していたのです。今は、随分さびれてはいますが温泉場もあります。

 明治に、この地を訪れた与謝野官寛・晶子夫妻の歌も残されています。
           宇戸ゆけば 不思議の箱の 岩ありぬ
                            浦島が子も 知らぬ渓かな         鉄幹

           しらしらと 岩乾きたる 宇戸の渓 
                            鬼のやさしき 松風をきく         晶子

           

 カメラを持っていかなかったため、写真をお見せできないのは残念です。

 

 我が吉備の国には、こんな隠れたる名勝地もあります。


温羅と吉備津彦命との戦い

2010-12-09 20:05:54 | Weblog

 今日、鯉山小学校の6年生の教室を訪ね、「吉備の中山」について話をしてきました。45分と云う約束でしたが、つい話しが長引いて60分を越してしまい、子供たちに大いに迷惑をかけたのではと思いながら教室を後にしました。

 今日の6年生のお話の中で、思わぬ展開になって、どうして吉備の国に飛来してきた百済の温羅が、大和からその征伐に来た吉備津彦の軍勢に敗れたかの話に及びました。
 
 「吉備津さまが、その戦いで使ってい弓の矢の先に付けていたのは鉄製の矢じりです。と云う事は、その当時、鉄製品を使うことが出来るのは、3世紀に入っていた後期弥生人だったのではないか。それに対して、温羅は、まだ、石でしか対抗できない縄文人ではなかったのか」。
 と、話します。

 この温羅と吉備津彦との戦いは、つまるところ、「鉄と石」、そうです。弥生人と縄文人との戦いだったのではないでしょうか。勝負は鉄と云う近代兵器を備えた弥生人、即ち、吉備津彦が勝つのは当り前です。
 「百済」と云うのは縄文人、そうです。野蛮な未開人。「大和」は弥生人、即ち、当時の近代兵器を供えた文化人を象徴的に描いたのではないでしょうか。そんな思いを込めて、子供たちの間にどれだけ浸透したかわ分かりませんが、話しました。

 なかなか面白い私の仮説だと思われませんか。桃太郎と鬼の戦いが、縄文と弥生の戦いだなんて聞いたことはなかったのではと思いますが。どうでしょうかね?????

 まあ、兎に角、そんな伝説も残されている「吉備の中山」の話をしておきました。子供たちがどう思ったかは分かりませんが。


12月8日です

2010-12-08 18:23:44 | Weblog

 何も考えないでのほほんと暮らしているのですから、「今日は何日??」と、誰かに尋ねられたとしても、
 「ちょっと待ってくださいよ。・・・ええと、確か一昨日、倉敷に行ったので、さて、今日は何日でしたっけ。・・・ええと」
 と、ぐらいにしか答えられないのが普通です。

 ですが、如何したことか、今朝は新聞を読んでいて、今日が「12月8日だ」と何となく知りました。しばらくして「あ、そうか。今日か。12月8日か」と、改めて思いました。

 真珠湾攻撃のあの日です。

 私は小学校の一年生でした。
 残念ですが、当時の記憶は、何一つ頭に残ってはないのです。でも、一つだけですが、果たして、それが12月8日の事であったかどうかも定かではありませんが、それらしいことが、その辺りで起きたのではないかと云うぐらいな薄ぼんやりとした記憶があるにはあるのです。

 私の家のすぐそばを走っていた伯備線の上り列車を見に、祖母にだったと思うのですが、連れ出されました。我々みたいな小僧まで駆り出されて、線路わきの空き地で、大勢の兵隊さんが戦争に行くのを見送ったのです。向こうの山を大きく曲がった汽車がゆっくりと近づいて来ます。駅のすぐ前でしたので、すごくゆっくりと走っていました。
 北風が吹いていたのでしょうか、蒸気機関車の煙突からは、もくもくと真っ黒な煙が出ており、その煙をも、客車と一緒に、引っ張るように走り去っていました。「C18」と云う番号が付いた機関車だったと、思います。
 「兵隊さんが遠い他所の国に戦争に行くんだよ」
 祖母の声でしょうか、今でも、耳に残っています。 
 そんな私たちのを前を、少しスピードを落としていた汽車が通り過ぎます。その通り過ぎる汽車にしきりに手を振ったのではと思いますが、大勢の兵隊さんもしきりと手を振っていたように思います。するとです。そうです。その時、通り過ぎる汽車の窓から、突然、一斉に何か飛び散る様に落ちてくるものがあるではありませんか。山のこの葉が散り落ちる様に、キャラメルだの何だらが降り落ちてきたのです。次から次へと、その列車が通り過ぎるまで。何を私は拾ったのか、拾わなかったのかは覚えてはいません。
 それが、多分12月8日であったのではないかと、何んとなく、私の記憶の中にあるのです。

 そんなおぼろげな記録しか残ってない、私の昭和16年12月8日です。

 この12月8日が、結果的に、日本をそれこそめちゃくちゃに壊してしまう日になるのです。
 でも、この日を、一体、今、何人ぐらいの日本人が思っているのでしょうか。
 

 今日はそんな日です。毎年の事ですが、今年も、又、年賀状をぼつぼつ始めるか、と思い付く日でもあるのです。


半田は秦からだ

2010-12-07 22:05:52 | Weblog

 又、例の筆敬氏からメールです。有難いことです。

 彼は曰く

 「おめえがけえた半田というのはなあ、おめえもしとるとはおもうのじゃが、秦の始皇帝の子孫が日本へにげてきたんじゃけんな。そうじゃにある秦にいったことがあるけえ。あそけえいってみんされえな、でえれえ、おもしれもんがいけえあるでなあ。たてえのいぜきはええつらが拵えたんじゃと言い伝えられておるんじゃと。いっぺん見に行ってみたら どげえなもんじゃろうかとおもうてメールをしとるんで」

 と。
 毎度、誠に親切なメールを今回も頂きました。

 総社市秦のどの辺りにどのような古代日本の遺跡が残されているのか一度探ってみたいという気になりました。どなたかご案内してくださるお方はいないでしょうかね。メール氏が案内してくださるといいのですが、彼もあまりよくは知らないのだという事でしいた。

 この吉備の国には書紀にも、「葉田の足守」に立ち返った妖艶なる女性「兄媛」を訪ねて、はるばると行幸された応神天皇の記事も見えます。が、葉田と秦・半田、これらの言葉の響きの中からは、日本の遠い遠い、文字もなかったようなほのぼのとした昔を語る面影でしょうか、何となく、イヌも歩けばではないのですが、そこら辺りからがぶつかりそうな気分になります。何かタイムマシーンの中にいるような、匂いが立ち込めているのではないかと云うような響きが聞こえてきそうです。

 本当に歴史って面白いですね。吉備の国って知れば知るほど本当に、スルメみたいに味が深くなります。


吉備の中山に神南山があり

2010-12-06 17:35:10 | Weblog

 またちょっと寄り道をします。

 此の前、私の住む町の鯉山小学校の6年生から「吉備の中山」について話をしてくれという依頼が飛び込んできました。どう、お話をしたらいいのか随分と迷ったのですが、あちこちの本を頼りに原稿を作りました。

 その中の一冊に、吉備津神社の後ろにある「吉備の中山」に、「神南(かんなみ)山」と呼ばれていたがお山があったと、書いてありました。

 その本には、
  ●神南山方角抄にもかかれしかども、其所詳ならず。備前の吉備津宮と当国の吉備津宮の中間をいえる山。ある人のかたりし
 と。更に、次のような和歌まで添えられてありした。

   保安4年大嘗祭主基御屏風備中国歌として
           千早振 神なみ山の 椎柴の いやとしの葉に いのりまつらん  行成

  と。
 なお、〈保安4年大嘗祭主基〉と云うのは、例の「瀬を早み 岩にせかるる 瀧川の われても末に あはむとぞ思ふ」の崇徳天皇の即位の時に行われる大嘗祭(1123年)に捧げる新米を作る場所を占いによって決めるのですが、それが主基と呼ばれたのです。その時の占いによって、お米が作られる場所が「備中」に決まったのでしょう。なお、此の和歌には「行成」とありますが、あの藤原行成ではありません。時代が違います、外の誰かでしょうが、和歌を奉って、それが屏風絵に書かれたのではないかと思われます。

  おそらく、この文章から想像するに、神南山と云うのは、万葉集などにも出ていますが、あの「神奈(又は南)備山」〈かんなびやま〉と同じで、神の住まれている山と云う意味ではないでしょうか
 インターネットで調べてみたのですが、この「神南山」と云うお山は愛媛県にもあり「カンナンザン」と読むのだと、説明がありました。そのお山を写真で拝見しますと、富士山のような三角形の恰好した、神がお住まいになっておられるのではないかと思わせるような、誠に、神聖なお山のようです。

 きっと、この「吉備の中山」も、愛媛県の「神南山」のように、当時の人たちにとっては、大変な神々しいお山ではなかったかと思われます。

 なお、愛媛の「カンナンザン」と同じような三角形のお山としては、大和の国の一宮がある大神神社の御神体である三輪山がすぐに思いだせます。このお山もやはり「神奈備山」で、万葉集にも詠まれている有名なお山です。

 そんなことを考えておりますと。備中や備前の一宮の背後にある「吉備の中山」も、やはり「神南山」、そうです、神々が住んでおられる大変に神聖なお山であったことには間違いありません。

 

 「吉備の中山」にも神が住んでいるのだよと、あれやこれやをこき混ぜながら、45分間、お話しようかなと思っています。


半田と云う地名

2010-12-05 17:55:34 | Weblog

 吉備地方には沢山の「半田」と呼ばれている地名があります。この地名は、この場所に、当時、秦人が土着した土地だと言う証拠なのです。

 まず、最初に、半田と言うと、「ああ、あれか」と誰でもがご存じの「半田山」です。半田山植物園がある、岡山大学の裏手にある山です。この山の南側一帯が古の半田だったのです。ここが帰化人たちが住みついた場所だったのです。この「半田(はんだ)」と、名のついた地名は、岡山県の各地に見られます。
 そのいくつかを上げてみます。

 ・赤磐市周匝・瀬戸内市山田荘・倉敷市三田・倉敷市箭田・真庭市上水・同中津井・同落合・その他勝田郡・英田郡・久米郡等に、その半田と云う地名を見ることが出来ます。少なくとも、半田と云う地名は、県内には、全部で20以上もあります。勿論、字名ですので、よほど詳しく調べないと分からないのですが。

 これら秦からの帰化人たちは、当時、主に先進的な農業技術者として、その地方の土地開発に携わったのではないかと思われます。池、灌漑用水路、干拓など幅広い分野で、指導的な役割を果たしています。当時の日本人にとっては、本当に有難い何でも知っている大切な人として迎えられたのだと思います。でも、彼ら帰化人に与えられた土地は一級地ではなかったのです。誠に辺鄙な所を、生活拠点として、与えられたのです。それが、現在までに残っている「半田」なのです。

 私は、これまで、中国や朝鮮からの帰化人の多くは、瀬戸内海沿岸部のある程度広々とした土地の開発に従事して、生産の一大飛躍をもたらした優秀な人々として、人々から大いに尊重され、それだけに、優遇されていたのではと思っていました。しかし、現実には、案外に、帰化人、そうです、他所者として、「豊富な技術を持っている我々の師になる優秀な人たち」とは思わないで、単に、「何処からともなく流れついた身元の分からない他所者」ぐらいにしか思われてはいなかったのではないでしょうか。その為に、中国山地の山奥(苫田郡羽出にも半田と云う字名があります)にまで、彼らは入り込んでいます。ここでも他所者意識で見られたのではないでしょうか。それが難民の実態ではなかったのでしょうか。しかし、彼らは、日本にとっては、大変な経済的効果はもたらしてくれたのは事実です。


大和の加夜臣奈留美命が吉備津神社を????

2010-12-02 16:39:39 | Weblog

 吉備の国は、大陸や半島からの多くの渡来人がもたらした高度な文化や技術によって強大な国にして行ったことは間違いないのですが、しかし、それら帰化人が実際に、どのように関わっていたかはよく分かってはいません。
 しかし、わずかですが、当時の中国や朝鮮の国々と関係があったのではないかと思われる言い伝えや伝説が、吉備地方に残っています。その一部をご紹介してみます。

 まず、「加夜臣奈留美命(「かやのおみなるみのみこと)」です。

 吉備津神社の社伝によりますと、吉備津神社の社殿を造営したのは「加夜臣奈留美命」と言う人で、この人が、吉備地方平定の為に大和から派遣させて来ます。その時、命は、吉備の中山の麓に「茅葺宮」を造り、そこを拠点にして吉備地方を大和の勢力下に置きます。その跡に、吉備津彦命を祭る社殿を造ります。これが吉備津神社の始まりだとしています。この「加夜臣」というのも、朝鮮半島で新羅等によって滅ぼされた金官加耶からの帰化人と何らかの関係があると思われます。
 この事からも、吉備と朝鮮半島との関係の深さが伺われます。
 この「かやなるみ命」を祭っている神殿は、大和の明日香村にあります、ぢうして大和政権の一翼を担ったと思われる大和の神が吉備に来て、天皇家の皇子の社を作らねばならなかったのかは不明ですが、朝鮮からの帰化人を語る時にはどうしても見逃すことが出来ない話だと思われます。

 「加夜臣奈留美命」が吉備津神社を造営して以降、その神官が「賀陽氏」を名乗ったのだそうです。これも、又、吉備津神社と吉備の国と朝鮮半島からの帰化人と、どのように結びついているのかは不明ですが。


大陸から多くの帰化人の渡来

2010-12-01 20:08:19 | Weblog

 後漢の時代が終わり魏呉蜀の三国が鼎立して、中国の統一が乱れると、それに呼応したように朝鮮半島でも諸民族が活発な活動を始めています。中国東北部から興った高句麗が北朝鮮一帯を統一します。又、南朝鮮では、百済、新羅、任那(金官加耶)等の国が起こり、互いに覇権を争うのです。日本書紀によりますと、その任那にあった日本府も562年に新羅に滅ぼされたと書かれています。
 このような朝鮮半島での争いは高句麗、新羅の連合による圧迫により、百済もその国体の維持が難しくなり、わが国に援助を求めてきたりもしたようです。
 そのように大陸や朝鮮半島での政治情勢は複雑化し、当時の最先端の優れた文明を持った中国や朝鮮の人たちが、大挙して日本に亡命してきたのです。それらの大陸からの帰化人を迎い入れ、その持つ最新の学問や技術等を、日本の各地に勢力を誇っていた大国の首長達は大いに取り入れ文化の向上に努めたのでした。九州でも吉備でも、勿論、大和もです。それは、その他出雲などのほとんどの国々で見られたのです。

 注目されるのは農業技術の輸入です。応神・仁徳天皇の頃には漢人や韓人を使って、池や堤などの灌漑の大がかりな施設を作らせ、農業生産の向上に努めております。

 なお、吉備の国に「賀夜郡」(総社・高松・足守一体を)と呼ばれていた所がありましたが、これなども、その名の出所は朝鮮半島の加耶(任那)からの渡来人が多く集まった所と言う事から付けられた地名ではないかと思われています。それら朝鮮半島や中国からの渡来人たちの技術が、あの巨大な「造山古墳」が吉備に出来る原因になったのではないかと思われます。

 これは、私の仮説なのですが、此の加耶の人たちは、当時、既に、軍事大国である前に、商業を中心にした経済大国であったのです。その為に、軍事大国であった新羅に亡ぼされる結果にななったのですが、その彼らの持つそれまで培った商業力を渡来した吉備でも、如何なく発揮して、あれほどの大和を除いては、全国に例を見ないほどの、巨大古墳を吉備の国に創り上げる程の力を吉備にうましめたのだと思います。彼らの持つ経済力が吉備の国力を高めた結果になったのではないかと思うのですが??????????大いに疑問視をしながらこわごわ書いています。