応神天皇の時、日本に、新漢(いまき)と呼ばれた漢からの帰化人達が住みついたと思われる場所がたくさんあるようです。その新漢「いまき」から変化して「にいみ」になったのだと、昨日、書きました。この「にい」即ち「新」ですが、この字の付いたと地名も、やはり漢と何らかの関わりを持って語られる場合が多いのです。
吉備津の近くにも新野(ニイノ)、新山(ニイヤマ)と呼ばれる土地があります。「ニイヤマ」は、例の鬼の城の辺りです。と云う事は、「温羅」、もしかして、伝説では「百済」から飛来してきた等と云われているのですが、真実は、秦からの帰化人たちの集団の長を言ったのかもしれません。地名から言いますと、寧ろ、こっちの方が正しいのではと???・
また、この新山にある「鬼の城」に住んでいた「温羅(うら)」を退治にした桃太郎こと吉備津彦命に仕えていたあの「犬」ですが、どうもこれもまた、私には、「秦」からの帰化した人達ではなかったかと思われるのです。それは、日本書紀に書かれている、中国「漢」の国から最初に渡来してきた阿智使主(あちのおみ)を祖とする略系の中に「犬養忌寸」が見られます。なお、この忌寸(いみき)という姓(かばね)は渡来人に与えられたものです。
温羅も秦人、おもたろうの「いぬ」も秦人、なんだかとっても愉快な気分にしてくれますね。
軍事的に優秀な温羅を征伐するためには、これ又、それと同等な軍事力をもつ秦人達の集団「さる」族を利用しなくては勝利が覚束ないと考えた「ももたろう」こと吉備津彦が取った戦略だったように思われます。
なお、この戦いでの戦費など経済対策については「さる」族、作戦面では、空から偵察できる「きじ」族、其々の分担に応じて働いた結果、桃太郎が勝利したのです。
でも、この戦いの後から、「いぬ」と「ももたろう」との間には対立が生まれます。それは、一番最初に家来になった「さる」には「きびだんご」を1つやったのですが、最後に家来になった「いぬ」には、どうしたことか、半分しかやらなかったのです。その多寡の大小による争いになったのです。それを知った「いぬ」は、
「自分たちが秦からの渡来人だったから、ももたろうは差別した」
と、考えたのです。それが原因で、「いぬ」族がこの軍団から離れて行ったのだと、そんなお話がこの地方には残っています。
だから、回廊の所にある随神門には「いぬ」がいなくて、「さる」と「きじ」だけで守っているのだとも
そんなん話をすると、
「とんでもねえ。そげえな はなしゃあ きたこともねえで」
と、、真顔になって怒る人も、近所に居られます。その方は「犬飼」さんと云われる人です。その人は言われます。
「吉備津さんを見てみい。あのなげえ けえろうの傍に随神門があるんは しっとりんさろうが。その門のなけえおって 吉備津さまの番を いっつも しとりょんさるんが 「さる」と」きじ」なんじゃ。・・・せえなら、「いぬ」はどうしょうるんならあ、と思うんが当たり前じゃろうが。そうじゃろうが。・・・・あのいなあなあ、鬼退治してからのちになあ、吉備の国の治安のために、自分からこうてでて、いわゆる「いぬ」になってなあ、吉備の国のいろんなとけえ散って行ったんじゃけん、だから、おらんのじゃ。おめえが言うように、吉備団子を半分しかくれなかったけえ、ふくれてどけえかいったんとは違うど」
と云われるのです。
「ううむ・・・・」
と、うなるしか方法がありませ。「旨い事云われるは」と、感心しきりです。そういえば、私の周りには、この「犬養、犬飼」姓の付く家が多いのです。備前・備中・美作・備後にも、沢山「いぬかい」姓の付く家があります。
と言う事は、この「犬飼」さんの言い分に軍配が上がるのかな??????
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます