私の町 吉備津

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高梁市福地について

2010-12-27 15:28:45 | Weblog

 「吉備に鍛治部なし」についてもう少し付け加えておきます。「真金吹く」の枕詞が付いておる吉備に、どうして「鍛治部」がなかったのでしょうか。その理由として、私は、鍛治部の必要がなかったからだと結論付けたのです。この古代吉備での、鉄を使った色々な最新の道具は、鍛治部と言う特別の部の民によらなくても、簡単に何処からでも入手する事が出来たのです。その例が、当時の「下道郡福治」の例からも分かります。
 この「福治」と同じように、鍛治部以外の人の手で鉄製品が作られていた所ではないかと思われる様な例が、ここ吉備の国には他にも見る事が出来ます。

 高梁市に「福地」(成羽町の東側の))という土地がありますが、そこではないかと言われるのです。この「福地」、何と読むのかおわかりですか????

 最初は「ふくち」。即ち、岡山市の「福治」と同じではなかったのかと考えられます。鍛治と同じです。その「治」が、何時しか、ここでは「地」に代わって、「福地」になったのだと思います。そして、面白い事に、「地」と言う字だけでなしに、いつしか読み方まで変っててしまったのです。
 「しろ」と読ませたのです。
 では、「福」がどうして「しろ」なのでしょうか。
 それについて、私は、次のような理由からだと推測しています。まず。「福」は、昨日も述べた通り、「吹く」です。鉄を作るという意味があります。では、それが何故「しろ」なのでしょうか。この「しろ」は、「たたら」から取り出した黒光りのする鉄の粗綱に鋼を入れて作った刀などの鉄製品は、銅の「あか」に対して。「しろ」と呼ばれていたのです。ただし、銀も山上憶良の歌にあるように「しろがね」と言われていたのですが、鉄製品はただ「しろ」と呼ばれていたのです。それは、又「真金」とも呼ばれていたのです。「真」は「しん」で「しろ」に通じます。

 その白い色に光る鉄製品を作っている場所と言う意味から「福」を、ここでは、それを「ふく」ではなしに、特別に「しろ」と読ましたのだと思います。要するに、はがね等を取り入れて白色を帯びさせた第2次産品である刀などの鉄製品を作る処と言う事から「福地」(ふくち)と言っていたものが、いつの時代かは分からないのですが、「しろち」と読ますようになったのです。
 「しろち」、そうです。それが「福地」の正式な呼び名となったのです。時代的に言うと、この呼び名になったのは、奈良以前の、造山古墳が出来た5世紀の初めのころの秦からの帰化人が大量に流れついた頃ではないかと思われます。

 そのような地名が沢山に残っている吉備地方です。決して、「吉備に鍛治部なし」ではないのです。「部」がなかっただけで、鍛治、そうです、それまでには考えもしなかったような全く新しい産業の革命を起こした鉄製品を生産した場所が、吉備の至る処にあったという証拠を残す、これらの地名です。

 そのような強大な力を持つ吉備の力を、どうにかして弱めようと大和は考えて策略を巡らします。その一つが雄略天皇がなくなった後に起きる星川皇子の反乱だったのです。

 その様子は、稚媛と言う吉備の美人と共に、来年にでもまとめて書いていきたいと思います。私も、今年は、世間並みに年末年始の休業と洒落て、暫く、お休みします。一年って本当にあっという間ですね。

 では、皆々さまにも よいお年を!!!


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