私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

大陸から多くの帰化人の渡来

2010-12-01 20:08:19 | Weblog

 後漢の時代が終わり魏呉蜀の三国が鼎立して、中国の統一が乱れると、それに呼応したように朝鮮半島でも諸民族が活発な活動を始めています。中国東北部から興った高句麗が北朝鮮一帯を統一します。又、南朝鮮では、百済、新羅、任那(金官加耶)等の国が起こり、互いに覇権を争うのです。日本書紀によりますと、その任那にあった日本府も562年に新羅に滅ぼされたと書かれています。
 このような朝鮮半島での争いは高句麗、新羅の連合による圧迫により、百済もその国体の維持が難しくなり、わが国に援助を求めてきたりもしたようです。
 そのように大陸や朝鮮半島での政治情勢は複雑化し、当時の最先端の優れた文明を持った中国や朝鮮の人たちが、大挙して日本に亡命してきたのです。それらの大陸からの帰化人を迎い入れ、その持つ最新の学問や技術等を、日本の各地に勢力を誇っていた大国の首長達は大いに取り入れ文化の向上に努めたのでした。九州でも吉備でも、勿論、大和もです。それは、その他出雲などのほとんどの国々で見られたのです。

 注目されるのは農業技術の輸入です。応神・仁徳天皇の頃には漢人や韓人を使って、池や堤などの灌漑の大がかりな施設を作らせ、農業生産の向上に努めております。

 なお、吉備の国に「賀夜郡」(総社・高松・足守一体を)と呼ばれていた所がありましたが、これなども、その名の出所は朝鮮半島の加耶(任那)からの渡来人が多く集まった所と言う事から付けられた地名ではないかと思われています。それら朝鮮半島や中国からの渡来人たちの技術が、あの巨大な「造山古墳」が吉備に出来る原因になったのではないかと思われます。

 これは、私の仮説なのですが、此の加耶の人たちは、当時、既に、軍事大国である前に、商業を中心にした経済大国であったのです。その為に、軍事大国であった新羅に亡ぼされる結果にななったのですが、その彼らの持つそれまで培った商業力を渡来した吉備でも、如何なく発揮して、あれほどの大和を除いては、全国に例を見ないほどの、巨大古墳を吉備の国に創り上げる程の力を吉備にうましめたのだと思います。彼らの持つ経済力が吉備の国力を高めた結果になったのではないかと思うのですが??????????大いに疑問視をしながらこわごわ書いています。