私の町 吉備津

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備前山守部の消滅と吉備の衰退

2010-12-25 10:06:22 | Weblog

 岡山市福治に「山守」の字を持つ所があります。この「山守」は、「山守部」と言われる応神天皇の時に作られた「広く山全体を守る職」を司る部民ですが、その一族がこの地に住んでいた所だろうと推定されます。
 この備前に置いた山守(やまもり)部ですが、どうも、当時、吉備の国が持つ、最っも大切な産物、そうです、「鉄」ですが、その生産から販売までの一切を管理もしていたのではないかと思われるのです。この製鉄の技術を持っていたと言う事が、大和を中心とする天皇と対等な勢力を持つことになるのです。だから、大和政権は、備前の持つこの強大な勢力を、どうにかして分散させようと図ります。まず、やったのが、備前を2つに分け「美作の国」を作り国力を弱めます。

 そんな時に起こったのが、と言っても、5世紀の後半に入ってからですが、一つの大きな皇位を巡る戦いが起ります。
 それが雄略天皇の死後の皇位を巡っての、朝廷内の権力闘争だったのではと思いますが、争いなのです。上道の臣の女「稚姫(わかひめ)」が生んだ星川皇子と韓媛の王子白髭との戦いになるのです。これも大和勢力中枢が吉備勢力衰退を考えて謀った陰謀ではないかと言う人もおります。
 丁度、その時代には、これは歴史にも何も書かれているわけではありませんが、どうも吉備の国でも、2大勢力だった上道と下道が対立していてお互いに仲たがいをしていて、十分な両者の間の意志の疎通が出来ていなかった時代のように思われます。その2つの吉備勢力の対立を見越しての大和の吉備に対する勢力の衰退を図る絶好のチャンスとばかりに仕掛けた陰謀ではないかと思われるのです。

 この戦いの結果、吉備の国の勢力は極端に弱まり、大和の勢力の中に完全に飲み込まれてしまう結果になるのですが、その一つを福治にある「山守」という地名の中から読むことが出来るのです。この遺名は「備前の山守部」の職を大和に奪われ、吉備の鉄作りが制限され、その力を消滅させられて行った過程を、何かその背後にある芥子山と共、現代の我々にそこはかとなく物語ってくれているようでもあります。

 

 なお、この5世紀の後半と言いますと、(両宮山古墳が出来るのは5世紀前半です)日本一を誇る伝仁徳陵である大山古墳が作られています。その頃から吉備の国には、もう、100mを超すような大きな古墳を作るだけの余裕は残ってはいなかったのです。その勢力は、完全に衰退してしまい、歴史の主役として活躍する吉備に再び戻る事がなかったのです。この星川皇子の反乱を契機にして、吉備は、普通の国になって、日本の歴史の表舞台の中からは完全に姿を消してしまいます。


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