私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

秀吉と元春・隆景の奇知

2010-08-14 08:40:11 | Weblog
 「清水宗治の切腹。それは私の伺い知る範囲のものではありません」
 恵瓊は秀吉に対坐して屹然と言い放ちます。
 「このようになった今、あのような水の上に浮かぶ落城寸前の高松城を目の前にして、清水長左衛門宗治が首を見ずして和睦せんは、信長公は、いかが思召めすことやら。その首一つで、幾万と云う兵士の首と引き換えにするのじゃ。それが信長公を迎える印とせねばならんのじゃ。勝ち負けを言うのではないのだ。この戦いの象徴にせねばならんのじゃ。これだけの大仰な戦いを、何もせずに終わらせることは、織田信長と云う名前に懸けても出来んのじゃ。それが我が方のこの戦いに懸けた必死の姿なのじゃ、この戦いの意味にもなるのじゃ。・・・・どうじゃな、日差山の吉川元春・小早川隆景に掛け合ってみてくれんか」
 そう言い放った秀吉の心の裏を見抜けない恵瓊は日差山の毛利家の本陣に帰ります。

 「ただ今戻りました」と、秀吉との話の顛末を語ります。

 元春・隆景はその話をじっと聞いてい居ましたが、案外の事であったのでしょうか、暫らく、何も言わずに思惟していたのでしょうか無言の静寂が続きます。ややあって、元春が何か思案ありげな物腰で言います。
 「約無うして和を乞ふは、謀(はかりごと)也と、孫子は言っています。その上、この度信長の軍勢が加わる事になれば、幾万というその勢力は、ますます強大になって、もうこれ以上、どうしったて増えるめどもない我が毛利の軍勢が、どのように立ち向かっても勝ち目は目に見えて居るのじゃ。それに目の前の高松城の落城もあと数日で、あそこに籠城する数千もの者は、総て水の藻屑になること必定じゃ。今、戦う前から勝敗損利は歴然としておるのじゃ。・・・秀吉は智勇の將だ。その辺りの事を十分に察知しているにも限らず、如何して、そのようなる和を請うたのか不審じゃ」
 すると、脇にいた隆景も、力強く言います。
 「味方の軍勢が秀吉のそれに比べ劣っていることは十分に分かりきっている事なのだが、我々は高松城に籠城している、あの清水宗治を助けるために、ここに陣を敷いて対峙しているのです。その宗治が切腹したのであれば、何のために、毛利の総ての軍をここに集結させたのか分からなくなってしまう。秀吉が、直ちに、城を取り囲んでいる堤を切り開いて、洪水を落とし、宗治を始め城中にいる数千の軍兵が助けられないのであれば、此の和平の案を了承することはできない。予定どうり明朝総攻撃の態勢に入る」
 と。

安国寺恵瓊の登場

2010-08-13 12:06:51 | Weblog
 秀吉から「急に逢いたい」と使いをもらった恵瓊は、なにはともあれ、まず、大将の小早川隆景に合い、
 「旧知である秀吉から、急に会いたいと言ってきているのですが如何に計らいましょうか」
 と尋ねます。
 明日は毛利・秀吉両軍の一大決戦です。何かあちらの情報でもと、考えたのでしょうか、それとも秀吉方の和平の交渉かなとも思い、小早川隆景は、恵瓊の秀吉と会談を了承します。
 善は急げとばかり、直ちに、恵瓊は使いの者と一緒に秀吉の陣へ行きます。
 
 その陣では、秀吉が待ち構えていたかのように、席を進めて、親しく話をします。
 秀吉が言います。

 「主君信長侯は、元々毛利輝元公とは、水魚の盟約を取り交わし、天下泰平ならしめんと思っていたのです。ところが、足利将軍義昭公が備後に御下向してから、両家の関係が冷え、兄弟の盟を破って、このような戦闘状況が生じたのだ」
 
 「槊(ほこ)を横へ、矢を飛し、呉越に等しき間となれり」
 と、絵本太平記に記されています。

 秀吉は、続けて言います。
 「今、わが国では万民が困窮して、塗炭のなかに苦しむ事久しい。信長侯はそれを早く解決して、天下泰平の世の中いしたいと願っています。どうかそのことをご承知して、戦いより、以前のように早く両家が和睦して同盟を結び、速く天下平定し、人々の暮らしを平安にしませんか」
 と、云う誘いだったのです。
 更に、秀吉は言います。
 「もし、再び、両家の盟約が結ばれたなら、北は伯耆の国の半分、それに此処を流れている兄部川を境にして、それ以西の地を毛利の領有地と成るよう取り計らいましょう。それが了承されれば、後は、あの清水宗治が切腹すれば、それで総てが終わるのです」
 「宗治の切腹。」
 恵瓊は驚いて秀吉の顔を見つめ、
 「どうしも宗治が切腹しなくてはいけませんか?どうして、それが和平の条件になるのでしょうか。・・・・考えて見てください、毛利軍が此の大軍を率いて、あなたさま、秀吉様と決戦すべしと、覚悟を決めたのは、他にも理由はたくさんあるでしょうが、清水宗治を助けたいと云うがその第一の原因となっているのです。それが「切腹させる」なんて聞けば、毛利方は、到底、それを安易には認めるとは思われません。却って、「秀吉にくし」といきり立って、負けるは百も承知して、戦って負けるのを本望と、毛利方の戦いになります、きっと。それこそ必死の戦いになる事、目に見えて居ります。両軍ともに、今まで経験したことがないような悲惨な結果になりましょう。数えきれないような多数の犠牲者が、幾万と云う数の兵が、この狭い地に無残に散らばることになると思います。どうしても、宗治の切腹を御諦め頂くわけにはいきませんか、秀吉殿」

 「清水宗治を切腹させる」と聞いた恵瓊は、大層驚いて秀吉に詰め寄ります。

近代戦争の先駆け

2010-08-12 10:32:19 | Weblog
 明後日、六月五日を決戦の日と毛利氏方では評定して、その手筈を整えていたのです。情報が漏れることを秀吉は厳重に統制管理していたのでしょう、信長が本能寺で明智光秀に暗殺された日は六月二日の朝の事です。それすら知らないで、信長が率いてくるだろう八万騎の影に怯えた毛利氏方がとった作戦として、まず、取り上げたのが、内部からの裏切りに対しての防御態勢造りをします。日差山本陣周りに、急遽、柵を構え芝土手を作り弓鉄砲を配置し、より強固な陣に作り直します。もし味方からの逆心者が出たとしても、聊かの恐れもない陣の構えにします。こうして、内からの崩れが心配なくして、今度は毛利方全員で一大決戦が出来るような態勢を整えて、以前の協議で決まった通り、まず最初に、羽柴七郎左衛門の陣を急襲して此処を占拠して後、一挙に秀吉の石井山の陣へ向かうべく、銘々にその用意をさせ待機させます。

 ところが六月四日の早天です。秀吉の陣から使者が、小早川の陣にいた芸州広島の僧安国寺恵瓊に、「ぜひとも、今日中に、会いたいのだ」と、やってきます。
 かって、秀吉が信長の仕える以前の話です。その頃、秀吉は、一時、松下之綱と云う武将の仕えていたのですが、ある時、矢矧の橋の傍の茶店で、恵瓊がたまたま、その前と通りかかった秀吉の顔を見て、、「天下を知るべき奇相なるべし」と言ったことがきっかけとなって、秀吉と好みを通じていたのです。
 此の相見知っていた安国寺が毛利軍の中にたまたま滞在していることを知った秀吉が
「恵瓊と話がしたいのだが」
 と、面談を持ちかけてきたのです。

 ここでも、たまたま、恵瓊が毛利軍にいたことを秀吉が知っていたと、書かれていますが、そこら辺りの情報網の確実な収集方法がいかに優れていたのかもよく分かります。

 いつの時代でもそうですが、情報の機密を完全に保持しながら収集した情報を巧みにその戦略中に打ち立てて戦うかが戦いの勝敗を分ける大きなカギとなる事を秀吉は誰よりも熟知していたのです。
 正確な情報をもとに、常に、綿密な戦術を立てて戦いをするのが「近代戦争」なのです。そうです。鉄砲の使用と共に得た情報を最大源に戦争に利用する戦略の二つが両輪となって繰り広げられた戦いだったのです。
 それらの二つが、この高松城で、秀吉方の戦いで初めて発揮されたのです。川中島の戦いにも桶狭間の戦いにもなかった近代的な全く新しい戦略なのです。それを秀吉は見事この地で、日本史上初めて実証したのす。
 だから、この高松城の水攻めと関連した一連の戦いによって、「近世」は始まったと言っても過言ではないと思います。一般に言われている、関ヶ原の戦いの18年前に、既に、日本の近代はスタートしていたのです。

 現在、岡山でもあまり話題にのぼることはないのですが、この高松城の合戦を始め一連の足守川を挟んだこの地での両者の数々の戦略戦術上の駆け引きが、日本の「近代」の夜明けを決定付ける源であると云う事がはっきりしているのです。秀吉軍が4月上旬に備中の龍王山に陣をひいて以来、六月五日清水宗治が湖上で切腹するまで、たった三ヶ月間の出来事がその後の日本の歴史を、あまり語られることはないのですが、決定付ける大変大きな出来事であったのです。どうしてでしょうかね??????? 私は大いに疑問に思うのですが。

吉川元長と三沢為虎

2010-08-11 12:52:23 | Weblog
 他の武将たちの間には、先の評定で三沢為虎の言った裏切り者の話で動揺は隠せません。その武将たちの間の疑心暗鬼の心が辺りに渦巻き不安がたちこめています。そのような中での日差山での四人だけの評定です。その時、決まったことは
 「もし、三沢等秀吉に一身する者があれば、彼ら裏切り者は、決戦になると、最初に、ここ、そうです日差山の本陣を攻撃すること明らかだ。だから、まず、ここの守りを固めて、全員で秀吉の本陣を一文字に決死の攻撃する以外に、毛利方の生きる道はない。」
 と云う総攻撃をしかけるというのです。日時は明後日六月五日と決まります。
 そのような取り決めを四人だけで行いました。
 でも、吉川元長は血気の若大将です。三沢為虎の裏切りそうな気配が癪で癪でなりません。そこで、此の評定の帰りに、一人で、三沢の陣に立ち寄ります。
 「やい為虎、汝はいかなる所存があって、この毛利を裏切って秀吉に味方するのか。その理由を聞きにここに来たのだ。その通りなら、今すぐ我が此の首切り取って秀吉の元に差し出せ」
 と。為虎、これを聞いて、大いに慌てて頭を地に附して申します。

 「こは思いもよらざる仰せにて侯へ、不肖のそれがしに候へ共、先祖より毛利家の臣として君恩山海にも等しければ、何ぞみだりに逆心をさし挟み申すべきや、是は讒者の我を失わん為にあられぬ事を申上げ候と覚え候。かく思し候う上は、起請文を書て呈し申すべし。それにても御心解がたく候はば如何せん、只今御前にて切腹いたし、赤心を顕し申すべし」
 
 と云うのです。元長も、この三沢氏の態度から逆心はなかったのだと云うを了承して、長居は無用とばかりに陣へとって帰ったのです

 なかなかおもしろいはんしでしょう。なお、讒者とは、漢文先生によると、ことばたくみに告げ口をして人をおとし入れる人の事だそうです。赤心とは、誠意まごころの事だそうです。

三沢為虎の心配

2010-08-10 17:56:14 | Weblog
 吉川元春の嫡子元長が日差山での毛利方の評定で、高松城の清水宗治ら数千の者の命を救うために、いかに秀吉の防御が厳しかろうとも、信長がこの高松に到着される前に一大決戦をすべきであると大いに主張したのです。小早川隆景もその元長の考えに賛成し、「いたずらに用なき対陣に日数を過ごさんより、唯一線あるのみ」と、毛利の総意を一決します。明日は激しい一大決戦決まったのです。
 その時、三沢為虎と云う武将が言います。

 「ここに居合わせている誰もが知っている通り、あの冠山城の戦の時も、日幡城の落城も、秀吉へ志を通わせた味方の裏切りによって落城したのだ。この度の総軍の決戦ですが、戦いになれば、誰それは裏切るのではにだろうかと、我が軍の中には、はや噂がしきりと飛び交っている。これでは、到底、戦にはならないはずです、わが軍の敗北が目に見えて居るのじゃ。それをどうにかしなければ、戦さどころの話ではないのではないか。味方同士で疑心暗鬼でお互い腹の探り合いをしているおじゃ。これでは戦くさにはならんのじゃ」
 と。

 こうなっては評定にはなりません。一先ず、この戦いはどうするか、吉川親子・小早川隆景とそれに久村久左衛門の評定に任せることに決まったのです。

 さて、四人のその評定はいかになりましょうか、例によってこれもまた明日のお楽しみに、今日はこの辺で、ますます講談調でしょう。こんなことになろうとは、我ながら驚いています。

秀吉から菅家氏に送った手紙

2010-08-09 07:01:42 | Weblog
 この高松攻めの現場にいて、毛利方の動静を詳らかに把握していた秀吉の情報収集能力は素晴らしいものが多かったと、この逸話からもよく読みとれます。更に、主君信長に対する配慮と云うか、部下として主君の性格を鋭く見抜き、その意に対して自分はどう動けばいいのかも配慮して行動を起こしていたかも、よく分かります。主君があっての自分という意識、そうです、上司に対してどのように処するべきかと云う事にも十分に心得て行動していたのです。処世術が、周りにいた他の武将より余計に長けていたのだと思います。それが、草履取りから出発して太閤までに上りつめた原因ではないでしょうか。

 その事がはっきりと表れているのが、五月十五日にしたためたと云われている、次の手紙です。
 「もはや高松城の落城も毛利方の大敗も、我が掌(たなごころ)にあり」と、その時の情報から、既に、秀吉の率いる軍の勝利を確信していた様子がうかがわれます。上司への、その場の状況をつぶさに伝えているのです、それも直接の上司、主君信長ではなしに、主君のお側に仕えている菅屋と云う上司に当て出しているのです。そして、「もうすぐ高松城は秀吉の手によって落ちますよ」と、手紙に書いています。
 もし、この手紙を、菅屋と云う人でなく、直接、主君信長に送っていたとしたら、また、日本の歴史は大きく変わっていたのではないかと思われます。
 それは、「もうじき、この高松城は、勿論、西国の雄、毛利氏は、私の手によって征伐できますよ。ご安心ください」と、いう内容の手紙だからです。
 この時、信長は、自ら直接、毛利征伐を思って中国遠征が具体化していた時です。
 秀吉は、きっと、この手紙で、信長に
 「わざわざ遠路、この高松まで、おいでくださる必要はございませんよ。」
 と。
 此の直接でなく、間接的に秀吉の思いを、信長に伝えて、安土城で待ってくださいと、云いたかったのではないかと思うのですが???
 その時の手紙文を書いてみますので、その秀吉の心の内をお読みいただけららと思います。読み下して書きます。

 「態(わざわざ)書檄を捧げて愚意を伸べ奉ります。華(をはんぬ)
  備中高松の城 地の利全く、武勇智謀の士数多(あまた)籠り居り、茲に因って水攻めに致し、既に落城は旬日の内外に為る可し、然る処、毛利右馬頭輝元、後巻の為に数万騎馬を率いて対陣令め、高松城を相救う可き行(てだて)に候。両陣の間十町には過ぐ可ず候。
御勢(おんぜい)聊(いささ)か合力に於ては、その勢を以て高松之城囲み、某勢(それがしがぜい)を差し向け、以て合戦を遂げ、即時に追崩し、西国悉当年中に、幕下に属す可き事、手裏(てのうち)に存り。此旨宜しくご披露に預かるべく候。恐惶謹言
 天正十年五月一五日
                          羽柴筑前守
                                 秀吉
 菅屋九右衛門殿」

 是を平たく読めば、「毛利の征伐は後十日もすれば済みます、西国はことごとく織田家の勢力下になりましょう。どうぞ私にお任せください。」と、読めます。
 もし、この戦いを秀吉にまかせて、そのまま安土に信長が居たならば、本能寺は、勿論、緒千征伐・関ヶ原と云った戦いは日本の歴史の上から消えてなかったのでしょうが。
 でも、秀吉の心はそこにあったには違いありませんが、それを、直接、言わないのが知将の知将たる所以です。もうこの高松に向けて出発しているのは事実だったのです。ならば、「勝利の御旗は信長の手に、私は、それまで、ただ、待つべきである」と、判断しますが、万が一にでもと思ったのでしょう、現状報告の手紙を菅家氏にしたためたのです。光秀の謀反など、心に知る筈もありんせんので。

 歴史とは本当に面白いものですね。事を知れば知る程に。

 なお、この手紙文の読み下しは、私では処理できる範囲外のものでしたので、久しぶりに漢文氏を尋ね、又長話をしながら読んでいただいたものです。念のために。

秀吉の戦略

2010-08-08 21:23:52 | Weblog
 この日幡城も、また、その内からの裏切り者を出して、落城させます。この城を攻撃した時も秀吉にはある計画がありました。それはこの城を攻めさせたのが備前岡山の浮田勢と鼓山に陣取っていた羽柴秀長の軍でした。秀吉の軍勢は石井山の陣から一歩も動かず、その動静を眺めていただけだったのです。その時、秀吉は周りの武将にこの戦いに対するわが胸の内を言っています。それも此の「絵本太閤記」には書いてあります。
 
 「わしはこの戦いにも、じっとして動かず、その有様を見ていただけだ。廻りの武将たちにも、もし功を焦って、この戦いに参戦する者あらば、厳重に処罰すると、通達していたのだ。だから誰も参戦せず見守っていただけなのだ。なぜだ分かるか・・・・・。もし我が軍勢の誰かが動けば、今この戦いで窮地に立たされている吉川・小早川の毛利軍が参戦すること確かだ。その時を、今か今かと毛利軍は待って居ると云う情報を得ている。上原元佑が寝返ることはあらかじめ分かっていたから、我が軍の勝利はまちがいないことなのだ。毛利軍は戦いの不利なことを承知して参戦するのだ。それぐらい、必死に戦うだろうことは予想がたつのだ。その結果、勝てる戦いでも、負けることもままあるのだ。・・・・見て居れば、あの日幡城はもうじき落ちる。まだ、高松城も残っている。これからが勝負なのだ。この作戦は、あの竹中半兵衛が遺言として、我に教えてくれてたのだ。いいか、いまはただ黙って見て居れ。毛利との本当の勝負は、主君織田信長様がここに来られてから決しようと思うのだ」
と。天正十年五月十五日の事でした。

 そして、急使を立てて間接的な信長へ戦況報告を急遽送ったのです。その手紙は今でも残っていると伝えられています。

上原元佑の裏切りにより日幡城の落城

2010-08-07 11:49:13 | Weblog
 「聞いたこともねえけえ、書け」と云うご命令。聞いたこともねえどころか、高松城の水攻めを語るときには、必ず、この城の事は語られるのですから、きっと、寶泥氏は、既に、知っておられるとは思うのですが、「まあそげんな詮索はなどは、どうでもええわい。言われたことはやったるがな」と、ばかりに阿呆みてえにけえてみます。

 なお、これも余談事の事だとは思いますが、毛利方の秀吉軍に対する防御の為の城として、主な物を北から順にあげて見ますと、①宮地山城、②冠山城、③高松城、④鴨庄城、⑤日幡城、⑥松島城、⑦庭瀬城の七つの城があったと言われています。

 その一つが日幡(ひばた)城です。倉敷市日畑の足守川の左岸に立てられた城でした。この城の城主は、日幡六郎兵衛です。この城を守るために、芸州から元春・隆景の妹婿の上原右衛門元祐が派遣されて、日幡城のすぐ後ろの楯築山に陣を張って共同で守っていたのです。
 
 ところが、その上原元祐に秀吉からの裏切りの誘いがあります。その誘いにまんまと乗った元祐は、日幡六郎兵衛にも、毛利家を裏切って、秀吉軍につくようにと相談を持ちかけます。すると、即座に、六郎兵衛が言います。

 「あなたは、沢山の恩賞を与えると、秀吉から云われて御恩ある毛利家を裏切るのであろうが、それは大罰です。祖先の名を穢し、子孫に恥辱を与えることになること間違いないことなのですよ。それでも裏切るのですか。願わくば、どうぞ、今までどうり、例え命が尽きようとも最後まで毛利家の為に働く事こそが主君に対するご奉公ではないですか。それが我々武士の面目ではないのでしょうか。どうぞ思い止まってください。まして、あなたは元春様の妹婿に当られる大将ではないですか」
 と、懇願します。でも、聞き入れられず、逆に、元祐によって六郎兵衛は切り殺されます。

 このようにして日幡城が落城します。天正十年四月十一日の事です。この日幡城の落城の翌日から、そうです翌十二日から、あの高松城を取り囲む堤が突貫工事で築き始められるのです。この城の落城で三つ目の城は落ちたのです。
 ここにも、又、毛利家の内からの裏切りがあったのです。秀吉の和戦両様の戦術を駆使した戦いの巧みさを物語る一場面です。
 

日幡城??聞いたこともねえで

2010-08-05 20:35:24 | Weblog
 本当に久しぶりに寶泥氏からのメールを受け取りました。彼曰く

 「近頃の暑気かなんか知らんが、元気だ、普通の年寄りと比べたら、奴らとはよっぽどわしの方が数倍も元気だと思っておったんじゃが、熱中症やらという近頃流行りの病ではなかったんじゃが、なんだか、いっこう元気がでんで、食欲もなくなってしもうて、此のまま、あの世とやらを見学に行くんじゃねえかと思っおったんじゃが。ところがじゃ、病院の藪先生は、つぎのようにのたまわれるんじゃ
 「当分の間、まだこの世の中の事を見ておりんせえな」
 と。せえで、入院もせんで、痛い注射を2,3本打ってもろうて、そのまんま家に帰っているんじゃが・・・・。

 と、云う長たらしい通信を頂きました。

 その中で彼は、なお、言います。

 「おめえのかえていることはようわかった。そんなに屁理屈を並べんでええ。・・・わしゃあ、日幡城攻めなんてのが高松城の水攻めと一緒に有ったなんてこたあ知らなんだのじゃ。おめえが書いたのを見て初めて知ったんじゃ。外のもんは知らんが、もう、やめにするというんじゃが、ちいでのことに、どうせろくでもねえことけえて、いつも脱線ばかりしているおめえの話と云うもんを聞いてやるから、ほかのもんの事はほってえて、日幡城のことをけえたらどねんなのじゃ。外のもんは読まんじゃろうがわしは読んだる。」

 そこまで言われたら書かざるを得ません。明日から、又、興味はないと思いますが、1,2回、あの興味本位に書いた絵本太閤記や備中兵乱記の中から取り上げてみますので、お付き合いくださいますよう、よろしく願いします。どしどしご批判お願いします。

 

 彼一人の願望ではありますが、一端はやめにしようかと思ったのですが、また、暫く続いてお話してみます。あまり興味はないと思いますが。よかったら目をお通しください。お願いします。

 なお、彼には怒られそうですが、彼の年は、今、現在88歳だそうです。元気そうに見えても、やはり、よる年波には勝てませんね。人間てもんは、所詮、そんなもんではないでしょうか。

與治兵衛の顛末

2010-08-04 15:55:42 | Weblog
 秀吉は毛利秀元の働きによって無事救出されますが、この船頭に対して秀吉は大いに怒り、引き出して「その首を即刻刎ね」と命じになられます。御家来衆は此の與治兵衛を小舟に乗せ、太閤が乗った御座船の前の方を沖に向います、その時與治兵衛は御座船に向って大声で叫びます。

 「御運めでてたき大将であられます哉。私は先の備中冠山で太閤の命により首を刎ねられた黒崎団右衛門の弟也。その兄の仇を討ち果たさんと、年月心を苦しめておりました。言甲斐なき船頭の身、近寄り奉る事叶わず、空しく年月を過ごしていたのですが、時なる哉今日の御船、沖中にて打ち砕き兄の恨みをはらさんと、わざと岩上へ乗上しに、御運めでたく、何の恙もましまさず、わが大望いたづらに成り、ここにて命を失ふとも、泉下の兄に申訳あり、いざ斬せ給へやとて首差し伸べて座したりけり。」
 と。
 切り落とされた首は同体と一緒に海中に沈んでいったのです。なお、この海を当時は、「與治兵衛ヶ瀬戸」と呼ばれたと書いてありますが、現在では、こんな名前の場所は、関門海峡には、どこにも見当たりません。念のために。

 これがあの冠山の顛末でした。

 まあ、実か虚かは定かではないのですが、これも太閤記の一部なのです。しかし、この冠山の戦いでも繰り返されていた執拗なかつえげつない秀吉方の毛利への裏切りへの働きかけがあったと云うのも事実なのです。それによって城が落城したのが、次の戦いの場になった日幡城の戦いなのです。

 あまりくどくしいのでも、この辺りで話を打ち切りますが、秀吉側の作戦には、実際の大々的な戦争も沢山あったのですが、戦を始める前に、相手に何らかの心理的な圧迫心を起こさせ、戦争を相手方の中から回避させていくような戦いの裏側にある作戦が重要な戦略計画として存在していたことには間違いありません。スパイ活動もしかり、褒章をちらつかせて裏切り行為をさせて味方に付けさせる戦略もしかりです。竹中半兵衛、黒田勘兵衛等がその先鋒だったようです。

 その手にまんまと乗ったのが日幡城の戦いなのです。こんなことがあってからの日差山での毛利家の戦術会議だったのです。

将に、講談調そのもの秀吉の身のこなし、とくとごろうじを

2010-08-03 08:00:16 | Weblog
 まあお聞きくださいませ!
 この大浪の海中に乗り出した秀吉を乗せた船は如何なる運命に出逢ったのやら・・・タンタンタンと、打ち持つ扇で演台を力強く打って語る講談中の最高の場面です。そこら辺りの様子を、此の絵本太平記には、次のように記しています。

 「大浪いや高く発り来て、人々こはいかにと見る程に、太閤の御座船、大岩石の上に乗掛け、めりめりと鳴るぞと見えしが、舳先の方二三段に砕け飛んで、御船既に覆らんとす。御伴の人々是を見て、あれよあれよとあせれども、逆浪の為に隔てられ、救い奉るべき手術(てだて)なし」
 
 と、書かれています。
 さて、「太閤危うし」という、この危機迫る場面を、太閤は、その早業で難を逃れていますが、如何にも漫画的に、そうです。是ぞ、将に、絵物語そのものなりと云わしめるような書きぶりで紹介しています。「とくとご覧じあれ」ではありませんが、爽快なる秀吉の動きを「ごおゆるり」と、お読みください。

 「太閤、珍事(めずらかごと)よと驚き給ひ、舷(ふなばた)に走り出て、彼大岩の上に踊上がり、四方を屹(きっ)と見給うに、毛利秀元小船に取り乗り数十挺の艪を以て大濤を横切横切、はや御側へ漕寄せ、太閤をその舟に移し参らせ・・・・・」

 普通なら舟が岩突き当っているのです。乗っている人はそのまま舷にぶつかるか、万が悪いと、そのまま体ごと海中に投げ出されるのが普通です。それを太閤はひらりと空中に飛び出し、そのまま体を一回転させて、舟の中から突き当った岩の上に、すくっと、お立ちになったのです。もしそれが本当なら、拍手喝采の身のこなし方です。体操の選手でも驚くような9・99の、いや10点満点の超難度の技を見せたのです。
 いやはや、絵本ならではの、誠に見事な超人的な身のこなし方ですね。そうして無事に太閤は九死に一生を得るのでした。
 めでたしめでたしのお話でしたでは済まないのが、此の絵本の面白さです。さて、この船頭與治兵衛、この後、如何なる運命に合うのでしょうか?????
 

どうも嘘っぽい団右衛門の話

2010-08-02 19:43:32 | Weblog
 団右衛門の弟與次兵衛は、兄は秀吉の為を思って降参したのですが、無情にも、無残に殺害されたことを聞いて随分と憤慨し、機会あらば「己秀吉め、此の仇、きっとかなえてくれよう」と、その機会がくるのを伺っていたのです。

 時は文禄の頃です。
 例の朝鮮征伐事件の為、秀吉は九州の名護屋に軍を率いて赴いていた時です。秀吉の母が急に倒れん亡くなられます。急遽京に引き返した秀吉は、壮大なる母の為の葬儀などを済まして、再び、名護屋に駆け付けます。対岸にある長門の赤間関に着いたのは9月28日でした。その日は、あいにくと北風が荒く吹き荒れ、海上は一面白浪が高く舞立っていました。それを見たお側に侍っていたお付きの人々は
 「こんな波が高い今は、此の赤間が関に船と止めて、風は凪ぐのを待って、名護屋に向かったらどうでしょうか」
 と、口々に云います。
 
 ところがです。秀吉の乗った御座船の船頭が、どうして此の舟の船頭であったかは記されてはないのですが、あの団右衛門の弟與治兵衛だったのです。
 是は物語を面白くするための作者の意図であったのかもしれませんが。そこら辺りに、どうも嘘っぽいような作り話の匂いがしないでもありません。しかし、此の絵本太閤記には、ご丁寧にも、こう書き記しています。

 なお、是も余談事ですが、こんな話は、我が湯浅常山が、とっても好きそうな話ではあります。もし、常山が、そんな話をどこかで小耳にでも挟んでいたなら、直ちに、この「常山紀談」に書かれていること請け合いですが、現実には、この件については何も書かれてはいません。と、云う事は、この話が、紛う事なく、作り話だと、決めつけてしまっていいのではと思えるような話です。
 もし、そうであるなら。冠山城の団右衛門の話も、どうも嘘っぽいような気がしてならないのです。備中兵乱記の伊賀・甲賀の忍者が城に忍び込み火を付けたと云うのが本当の話かもしれませんね。
 
 でも、そんなことは置いといて、岡山弁で言いますと「そこらへんのことを ぼっけーおもしろう、けえておるんじゃ」の絵本太閤記の話に戻ります。

 その船頭は、嘲笑って言います。

 「お供の者のなんて臆病者ばかりなことでしょう。この沖は風無き時でも、何時も大浪が立っています。このくらいの大風に帆を上げて、一飛びに瀬戸を渡れば心地よいこと受け合います。船の事はこの船頭にまかせてください。」
 「ご安心召され。大丈夫です」と、帆を上げ出航します。すると、家来たちの乗った他の船も一斉に船出します。
 

団右衛門、陣外で首を刎ねられる

2010-08-01 08:02:41 | Weblog
 城に火を付け、城門を開いて清正の前にひれ伏し、降参した団右衛門を引き連れ太閤秀吉の前に出て、それまでの成り行きを説明します。その団右衛門を秀吉は「礑(はた)と白眼(にらみ)」言い切ります。

 「己以前は下郎土民にせよ、今は毛利家の足軽を預かり、武士の数に入りたる者の、恨みある相手を討ち果たすべき筈なるを、己が恨みの為に主人の城に火を放ち、門を開き、敵を引入る条、不忠とは言わん獣心とは言わん、言語道断憎き奴かな、以後の見懲しの為、引き出して首を切れ」

 と下知します。士卒どもは彼を陣外へ引立て、「終に首をぞ刎にける」と、いとも簡単に書かれています。これぞ秀吉の私情を殺しての、武士と云う公事を大切にした処置であったかと云う事が分かる小さな事件です。これは一種の自分の兵卒に対する統制への見せしめであろうと思われます。
 此の事件は、すぐ次に来る明智光秀の主君織田信長の暗殺事件と絡んで、封建社会(武家社会)の主従関係は、そんなちっぽけな私情を挿む余地のない程重要な約束事なのだと云う事を筆者が読者に語りかけているのではないかとも思われます。

 話はこれで終わるわけではありません。まだ、続きがあるから歴史は面白いのです。

 この団衛門には一人の弟がいます。名を黒崎與治兵衛と言う、これも船頭をしていました。此の弟が兄の処刑を風の便りで知ります。そして、兄の仇は、この俺が必ず果たしてやると憤ります。

 さて一介の漁師です。そんなにた易く「秀吉め」と、無暗に飛びこんで行けたとしても、簡単には仇を取ることが出来るでしょうか。