私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

近代戦争の先駆け

2010-08-12 10:32:19 | Weblog
 明後日、六月五日を決戦の日と毛利氏方では評定して、その手筈を整えていたのです。情報が漏れることを秀吉は厳重に統制管理していたのでしょう、信長が本能寺で明智光秀に暗殺された日は六月二日の朝の事です。それすら知らないで、信長が率いてくるだろう八万騎の影に怯えた毛利氏方がとった作戦として、まず、取り上げたのが、内部からの裏切りに対しての防御態勢造りをします。日差山本陣周りに、急遽、柵を構え芝土手を作り弓鉄砲を配置し、より強固な陣に作り直します。もし味方からの逆心者が出たとしても、聊かの恐れもない陣の構えにします。こうして、内からの崩れが心配なくして、今度は毛利方全員で一大決戦が出来るような態勢を整えて、以前の協議で決まった通り、まず最初に、羽柴七郎左衛門の陣を急襲して此処を占拠して後、一挙に秀吉の石井山の陣へ向かうべく、銘々にその用意をさせ待機させます。

 ところが六月四日の早天です。秀吉の陣から使者が、小早川の陣にいた芸州広島の僧安国寺恵瓊に、「ぜひとも、今日中に、会いたいのだ」と、やってきます。
 かって、秀吉が信長の仕える以前の話です。その頃、秀吉は、一時、松下之綱と云う武将の仕えていたのですが、ある時、矢矧の橋の傍の茶店で、恵瓊がたまたま、その前と通りかかった秀吉の顔を見て、、「天下を知るべき奇相なるべし」と言ったことがきっかけとなって、秀吉と好みを通じていたのです。
 此の相見知っていた安国寺が毛利軍の中にたまたま滞在していることを知った秀吉が
「恵瓊と話がしたいのだが」
 と、面談を持ちかけてきたのです。

 ここでも、たまたま、恵瓊が毛利軍にいたことを秀吉が知っていたと、書かれていますが、そこら辺りの情報網の確実な収集方法がいかに優れていたのかもよく分かります。

 いつの時代でもそうですが、情報の機密を完全に保持しながら収集した情報を巧みにその戦略中に打ち立てて戦うかが戦いの勝敗を分ける大きなカギとなる事を秀吉は誰よりも熟知していたのです。
 正確な情報をもとに、常に、綿密な戦術を立てて戦いをするのが「近代戦争」なのです。そうです。鉄砲の使用と共に得た情報を最大源に戦争に利用する戦略の二つが両輪となって繰り広げられた戦いだったのです。
 それらの二つが、この高松城で、秀吉方の戦いで初めて発揮されたのです。川中島の戦いにも桶狭間の戦いにもなかった近代的な全く新しい戦略なのです。それを秀吉は見事この地で、日本史上初めて実証したのす。
 だから、この高松城の水攻めと関連した一連の戦いによって、「近世」は始まったと言っても過言ではないと思います。一般に言われている、関ヶ原の戦いの18年前に、既に、日本の近代はスタートしていたのです。

 現在、岡山でもあまり話題にのぼることはないのですが、この高松城の合戦を始め一連の足守川を挟んだこの地での両者の数々の戦略戦術上の駆け引きが、日本の「近代」の夜明けを決定付ける源であると云う事がはっきりしているのです。秀吉軍が4月上旬に備中の龍王山に陣をひいて以来、六月五日清水宗治が湖上で切腹するまで、たった三ヶ月間の出来事がその後の日本の歴史を、あまり語られることはないのですが、決定付ける大変大きな出来事であったのです。どうしてでしょうかね??????? 私は大いに疑問に思うのですが。