私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宗治の切腹

2010-08-27 20:05:37 | Weblog
 六月四日も、早とっぷりとくれ、高松城に水嵩が刻々と増しています。籠城している城兵達にも、お城では、今、何かが起きている事は分かっていますが、果たして、これからの自分たちの運命と、その小舟に乗った一人の僧侶とが如何なる繋がりがあるのかまでは分からず、不安はますます募るばかりです。
 移送の小舟が城に着き、やがて、又、あわだたしく出て行った事は分かりますが、そこで何が話し合われ、何が決められ、これから、この城がどのようになって行くのかは、かいもく見当さへ立てられません。詳しい報告もなく、それが、余計に、籠城の人々の心に苛立ちを感じさせるのでした。
 夜も深々と更けてまいります。城の外を流れる水音だけは相変わらずごうごうと唸りを立てながら通り過ぎております。人も、そこにいる鼠や蛇までもが、其の恐ろしげな水音に鳴りをひそめ、蹲くまるように身を寄せ合っているだけです。

 一方、安国寺恵瓊は、秀吉に宗治の報告をすると、直ちに、毛利軍の本陣である日差山に駆け付け、高松城の人々の、今にも藻屑と化そう様子と宗治の元春・隆景に伝えてほしいと言ったことばを伝えるのです。

 「ただ今自害し此和平調ひなば、死期の面目何事か是にしかんや。未だ武運に尽ずして惜からぬ命一つ捨つるが故に、中国の危亡を救ひ、諸民の苦みを助くる事此の上なき悦びや是有るべき」

 当然、元春・隆景にも秀吉に与えたと同じような書簡もあったのだと思うますが、その後毛利家は、秀吉の配下に属し臣下になり下がりますので、太閤記では、敢て、秀吉と同等な書簡など無かったものとして、本としての態勢を整えたのではと推測しています。

 なお、此の恵瓊の言葉を伝え聞いた、高松城を救うためのあの両軍の決戦を唱えた、吉川元春の嫡男元長が如何なる言動をしたかなど詳し内容は歴史の中から消えてしまって残ってはいません。小説家の領分になるのですが、此処でも激しいやり取りがなされた事は確かだと思います。

 その領分に小説家でもない私が、少しぐらい立ち寄ってもいいのかとも思うのですがどうでしょう??????