私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宗治からの秀吉方への書簡

2010-08-21 15:40:11 | Weblog
 恵瓊の前で宗治は筆を走られます。

 「謹而(つつしんで)愚意を述べ奉ります。当地永々御在滞、楚辛労力恐れながら察し奉り侯、然者(しかれば)当城極運之儀、弥(いよいよ)近く覚え侯、小臣清水宗治、衆命に代わり切腹致す可き之条、憐愍(れんみん)を垂れられ籠城の輩寛仁之君徳を施され、悉く御助命にては、忝(かたじけな)く存じ奉り侯。回章に依って、明日五日辰刻切腹に及ぶ可く侯。然者小船一艘並に美酒佳肴聊か恩賜に預り侯はば。且つ老兵之疲労を散ず侯。恐々謹言
  天正十年六月四日
                           清水長左衛門宗治
   蜂須賀小六  殿
   杉原七郎左衛門殿

 と、云う書簡を認め、安国寺恵瓊に授け、
 「貴僧から、秀吉の御前宜しく取繕い希いください」
 と。さらに、元春、隆景には、
 「宗治は喜んで切腹します。決して沙汰御無用にござります。」
 そうお伝え下さいと頼みます。

 そんな宗治を見た恵瓊も感激しては
 「実に忠勇義心の臣とは、あなた様のようなお方を言うのです。英名当今に普く永世にのこるべし。この旨秀吉に申達し、和平成就ならしむべし。必ず実現させます」
 と、感涙を流し、断言するのでした。
 そして大急ぎで秀吉の陣へと取って返し、書簡を呈しながら、高松城での、この宗治との一部始終を話します。
 「あはれ義士かな、此の上は出来うる限り早急に織田毛利和順して、天下泰平の基を築かなくてはなるまい」
 と、秀吉。
 でも、此の時になっても、まだ、恵瓊は、二日前に本能寺にて、明智光秀の為に暗殺されていようとは想像だにしておりませんでした。いい事か悪い事かわ分かりませんが知らなかったのです。それも歴史なのです。それと、この坊主と言いましょうか恵瓊は此の和平が整った後から、果たして、信長からどのくらいの恩賞があるだろうかと、胸算用して、ほくそ笑んでいたのだそうです。
  

 なお、此の恵瓊のその後については、吉備とは、全然、関係ありませんので、興味のあるお方は御調べ頂き、それをお教えいただければ幸いに存じます。
 
 ものの本には
 <所領数多(あまた)賜るべしと、独笑(ひとりえみ)して居たり>と、書かれています。

 人間とは言え、坊主でも、所詮、それくらいなものかもしれませんね。どう思われますか????