私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

秀吉の戦略

2010-08-08 21:23:52 | Weblog
 この日幡城も、また、その内からの裏切り者を出して、落城させます。この城を攻撃した時も秀吉にはある計画がありました。それはこの城を攻めさせたのが備前岡山の浮田勢と鼓山に陣取っていた羽柴秀長の軍でした。秀吉の軍勢は石井山の陣から一歩も動かず、その動静を眺めていただけだったのです。その時、秀吉は周りの武将にこの戦いに対するわが胸の内を言っています。それも此の「絵本太閤記」には書いてあります。
 
 「わしはこの戦いにも、じっとして動かず、その有様を見ていただけだ。廻りの武将たちにも、もし功を焦って、この戦いに参戦する者あらば、厳重に処罰すると、通達していたのだ。だから誰も参戦せず見守っていただけなのだ。なぜだ分かるか・・・・・。もし我が軍勢の誰かが動けば、今この戦いで窮地に立たされている吉川・小早川の毛利軍が参戦すること確かだ。その時を、今か今かと毛利軍は待って居ると云う情報を得ている。上原元佑が寝返ることはあらかじめ分かっていたから、我が軍の勝利はまちがいないことなのだ。毛利軍は戦いの不利なことを承知して参戦するのだ。それぐらい、必死に戦うだろうことは予想がたつのだ。その結果、勝てる戦いでも、負けることもままあるのだ。・・・・見て居れば、あの日幡城はもうじき落ちる。まだ、高松城も残っている。これからが勝負なのだ。この作戦は、あの竹中半兵衛が遺言として、我に教えてくれてたのだ。いいか、いまはただ黙って見て居れ。毛利との本当の勝負は、主君織田信長様がここに来られてから決しようと思うのだ」
と。天正十年五月十五日の事でした。

 そして、急使を立てて間接的な信長へ戦況報告を急遽送ったのです。その手紙は今でも残っていると伝えられています。