私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宗治の涙

2010-08-20 07:35:34 | Weblog
 宗治は、兄月清に言います。
 「このように湖水日々夜々に増して行くのを見て、身の行末の日数を数えて見ると、果たしてあと幾日残っていることだろうか。・・・恐らく後十日もしない内に城内の総ての者が溺死するだろう。どうにか助けてやりたいものだ。其の為なら、わしの命ぐらい少しもおしくはないのじゃが。兄弟で腹を切って、城に籠城して居る者総ての命を助ける事は出来ないものでしょうか」
 すると、兄の月清も内々にさも有りたきものだと、啐啄するのでした。その旨を秀吉に伝えたいと使者を使わそうとしていた処に、この恵瓊の舟が湖上に現われたのでした。


 その恵瓊(えけい)の話をじっと聞いていた清水長左衛門宗治です。その閉じられた目から一筋の涙がこぼれ落ちました。

 「元春、隆景公の如き義将又世に有るべしとも覚えず。それほどまで我々の事を思召しであったとは。今、毛利秀吉両陣営の勝敗を計るに、敵は多勢にして、しかも、信長近日中に出張と聞こゆれば、その勢、甚だ大なるべし。我が毛利家は小勢にして見継ぐべき勢もなく、此のまま、戦闘に突入すると、味方は大敗すること必定です。そして、その時が、毛利家の存亡の時とこそ覚えます。然るに、たまたま、敵方より「和睦せん」と言って来たのです。こんな時に、清水のような者が、例え、五人十人命を捨てようが、和平が有るべき事になるのでしたならば、潔くわが命を捨てることはたやすい事でございます。それを、却って我らをかばい給いて、和睦領承し給はぬこそ、かへすがへすも残念な事でございます。我仮令詮なき命暫らくながら之有とも、とても助かるべき命に有らず。」
 
 そこまで宗治は一気に言い放ちます。そこでしばらく間を置いてから、又、話します。
 
 「只今自害し此の和平調ひなば、死期の面目何事か是にしかんや。未だ武運尽きずして惜しからぬ命一つ捨つる故に、毛利家の危亡を救い、諸民の苦しみを助くる事、此の上なき悦びに存じ侯」
 と、切腹するのが、高松城を預かって来た城主として、当然の任務であるが如くに申されます。
 それから宗治は、静かに筆をとり、秀吉への陣に送る書簡を認めるのでした。それも直接秀吉宛ではなく、間接的に蜂須賀小六と杉原七郎左衛門に宛てて出しています。

 どうして、直接、秀吉宛にでなく、側近の者に当てたのでしょうか?
 多分、当時の書簡を認める礼儀として、直接、大将に当てて書くのではなく、何か依頼する場合等のような時は、その側近の者に宛てて、間接的に書簡を書くのが礼儀だったのだと思います。直接では、余りにも不敬になるのです。それが武家の作法だったのです
 だから、もしも、こんな書簡が、今でも残っているのならば、当時の武家社会の、上下関係を伝える貴重な歴史的な証拠になるものです。残っているとは聞いていますんが。