安国寺恵瓊より、その書館と共に、高松城での会見の模様について聞いた秀吉は、其のこころざしに感じて
「其の求めに応ずべきの条、然るべき様に相計い返簡に及ぶべし」
と、蜂須賀小六、杉原七郎左衛門に命じます。
その書簡に曰く
「御状之趣越前守相達せ令し処、衆命に代り籠城の諸人御助成有るべくの結構、一入(ひとしお)相感ぜられ、即ち、御望に応ぜられるべきの旨に候。然れば、小船一艘酒肴十荷、之を進ぜ候。明日其刻限検使差し遣るべく侯間、静に用意之有るべく候 恐惶謹言
天正十年六月四日
蜂須賀小六
杉原七郎左衛門
清水長左衛門殿
この書簡二通ですが、当時は秀吉の陣と高松城の間を往来したことは確かですが、そんなん話が確かに伝わっているのは事実なのですが、残念ながら、現在では、此の二通の書簡とも、行方不明なのです。何処から、ひょっこりと出て来ようものならば、それは、直ちに、国宝になること間違いないもくらい貴重なものなのですが。
此に記した二通の書簡は、「絵本太閤紀」より書き出したものです。他の太閤紀に書かれてる内容と比べて見ると、若干の違いが認められます。
この違いは、本物の書簡がないことから来る違いだと思われます。
その例を2、3上げてみます。絵本太閤記では、ただ単に、ここに上げているように「衆命」としか書れてはいないのですが、他の太閤紀(太田和泉守の)には、この部分が「各四人衆命」と、切腹する者四名の命と引き換えにと書かれていたり、「四人の他、仮令、宗治の長男だったとしても、決して、切腹してはいけない」と書かれていたりします。
なお、四人とは清水宗治、月清、難波伝兵衛、近松左衛門であると、太田太閤紀には書かれています。
「其の求めに応ずべきの条、然るべき様に相計い返簡に及ぶべし」
と、蜂須賀小六、杉原七郎左衛門に命じます。
その書簡に曰く
「御状之趣越前守相達せ令し処、衆命に代り籠城の諸人御助成有るべくの結構、一入(ひとしお)相感ぜられ、即ち、御望に応ぜられるべきの旨に候。然れば、小船一艘酒肴十荷、之を進ぜ候。明日其刻限検使差し遣るべく侯間、静に用意之有るべく候 恐惶謹言
天正十年六月四日
蜂須賀小六
杉原七郎左衛門
清水長左衛門殿
この書簡二通ですが、当時は秀吉の陣と高松城の間を往来したことは確かですが、そんなん話が確かに伝わっているのは事実なのですが、残念ながら、現在では、此の二通の書簡とも、行方不明なのです。何処から、ひょっこりと出て来ようものならば、それは、直ちに、国宝になること間違いないもくらい貴重なものなのですが。
此に記した二通の書簡は、「絵本太閤紀」より書き出したものです。他の太閤紀に書かれてる内容と比べて見ると、若干の違いが認められます。
この違いは、本物の書簡がないことから来る違いだと思われます。
その例を2、3上げてみます。絵本太閤記では、ただ単に、ここに上げているように「衆命」としか書れてはいないのですが、他の太閤紀(太田和泉守の)には、この部分が「各四人衆命」と、切腹する者四名の命と引き換えにと書かれていたり、「四人の他、仮令、宗治の長男だったとしても、決して、切腹してはいけない」と書かれていたりします。
なお、四人とは清水宗治、月清、難波伝兵衛、近松左衛門であると、太田太閤紀には書かれています。