私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

秀吉から菅家氏に送った手紙

2010-08-09 07:01:42 | Weblog
 この高松攻めの現場にいて、毛利方の動静を詳らかに把握していた秀吉の情報収集能力は素晴らしいものが多かったと、この逸話からもよく読みとれます。更に、主君信長に対する配慮と云うか、部下として主君の性格を鋭く見抜き、その意に対して自分はどう動けばいいのかも配慮して行動を起こしていたかも、よく分かります。主君があっての自分という意識、そうです、上司に対してどのように処するべきかと云う事にも十分に心得て行動していたのです。処世術が、周りにいた他の武将より余計に長けていたのだと思います。それが、草履取りから出発して太閤までに上りつめた原因ではないでしょうか。

 その事がはっきりと表れているのが、五月十五日にしたためたと云われている、次の手紙です。
 「もはや高松城の落城も毛利方の大敗も、我が掌(たなごころ)にあり」と、その時の情報から、既に、秀吉の率いる軍の勝利を確信していた様子がうかがわれます。上司への、その場の状況をつぶさに伝えているのです、それも直接の上司、主君信長ではなしに、主君のお側に仕えている菅屋と云う上司に当て出しているのです。そして、「もうすぐ高松城は秀吉の手によって落ちますよ」と、手紙に書いています。
 もし、この手紙を、菅屋と云う人でなく、直接、主君信長に送っていたとしたら、また、日本の歴史は大きく変わっていたのではないかと思われます。
 それは、「もうじき、この高松城は、勿論、西国の雄、毛利氏は、私の手によって征伐できますよ。ご安心ください」と、いう内容の手紙だからです。
 この時、信長は、自ら直接、毛利征伐を思って中国遠征が具体化していた時です。
 秀吉は、きっと、この手紙で、信長に
 「わざわざ遠路、この高松まで、おいでくださる必要はございませんよ。」
 と。
 此の直接でなく、間接的に秀吉の思いを、信長に伝えて、安土城で待ってくださいと、云いたかったのではないかと思うのですが???
 その時の手紙文を書いてみますので、その秀吉の心の内をお読みいただけららと思います。読み下して書きます。

 「態(わざわざ)書檄を捧げて愚意を伸べ奉ります。華(をはんぬ)
  備中高松の城 地の利全く、武勇智謀の士数多(あまた)籠り居り、茲に因って水攻めに致し、既に落城は旬日の内外に為る可し、然る処、毛利右馬頭輝元、後巻の為に数万騎馬を率いて対陣令め、高松城を相救う可き行(てだて)に候。両陣の間十町には過ぐ可ず候。
御勢(おんぜい)聊(いささ)か合力に於ては、その勢を以て高松之城囲み、某勢(それがしがぜい)を差し向け、以て合戦を遂げ、即時に追崩し、西国悉当年中に、幕下に属す可き事、手裏(てのうち)に存り。此旨宜しくご披露に預かるべく候。恐惶謹言
 天正十年五月一五日
                          羽柴筑前守
                                 秀吉
 菅屋九右衛門殿」

 是を平たく読めば、「毛利の征伐は後十日もすれば済みます、西国はことごとく織田家の勢力下になりましょう。どうぞ私にお任せください。」と、読めます。
 もし、この戦いを秀吉にまかせて、そのまま安土に信長が居たならば、本能寺は、勿論、緒千征伐・関ヶ原と云った戦いは日本の歴史の上から消えてなかったのでしょうが。
 でも、秀吉の心はそこにあったには違いありませんが、それを、直接、言わないのが知将の知将たる所以です。もうこの高松に向けて出発しているのは事実だったのです。ならば、「勝利の御旗は信長の手に、私は、それまで、ただ、待つべきである」と、判断しますが、万が一にでもと思ったのでしょう、現状報告の手紙を菅家氏にしたためたのです。光秀の謀反など、心に知る筈もありんせんので。

 歴史とは本当に面白いものですね。事を知れば知る程に。

 なお、この手紙文の読み下しは、私では処理できる範囲外のものでしたので、久しぶりに漢文氏を尋ね、又長話をしながら読んでいただいたものです。念のために。