私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

高松城の水攻め後の秀吉と浮田秀家

2010-07-06 20:18:43 | Weblog
 毛利氏と和議を結んだ秀吉は、急遽、主君信長の恨みを晴らすべく京に引き返します。現在ですと、わずか1時間程度で岡山から京都にとって返すことはできますが、何せ天正年間の事です、少なく見積もっても、これだけの人数を引き連れての行程です。少なく見積っても2日間は必要です。

 その秀吉は考えます。備中高松から、一ったんは浮田秀家のいる岡山にて態勢を整備して京に上るのかよいと思うのです。
 しかし、当時、秀家は幼少としか出ていませんが歴史に照らし合わせて見ると、4、5歳の頃だったと思われます。

 常山は書いています。


 「・・・長臣老将の面々いかなる謀あるか料りがたければ、先ず使を岡山の城に遣りて一刻もとく馳せ上り、弔軍(とむらいいくさ)を志候岡山にて相謀べしと云わせられる。浮田もとより光秀の心を通じければ、秀吉帰路をふせぐべきやいかがせんという処にかく告来たれば、さらば城中にて討ち取るべし。願う処の幸なりとひそかに悦あふて其謀を相議しける。
 秀吉6月7日の明け方に高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に着きて、やがて岡山に赴くべしといいふらしけるが、俄に霍乱したりとてうち臥しければ、秀家の使来りたるに近習の者共出逢て、只今霍乱にて吐瀉せしが腹の痛み少しやみて寝入り候とあへしらひて時を移す。その間に秀吉は・・・・・・・。吉井川を渡り片上を過ぎ宇根に馳つたれば馬疲れたり。さて、使いを岡山にやりて急ぐ事の候てわき道を通りて過ぎ候ひぬといわせたしかば、浮田の人々皆あきれけるとぞ。