私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

冠山落城の武井將監

2010-07-31 08:37:21 | Weblog
 「拙者の腹の上を船に見立て歌を歌うから仰向けに寝転べだと、何を小癪な成り上りの船頭の小倅。生意気な奴。一刀両断に成敗してくれるは」
 と、刀を手にいきり立ちます。あわや戦いの前の、折角の宴席での、一大惨事になろうとしたのですが。
 「あや、しばしまたれよ」
 と、傍にいた鳥越、林などの將卒が飛び出して、両者の間に立ちはだかります。そうしてようやく両者が押隔てられて、一応、その場は事無に納まります。でも、納まらないのが団右衛門です。満座の席で辱めを受けたのです。その恨みはそんなに直ぐには解消出来る筈がありません。
 「おのれ。松田左衛門。覚えておけ。いつかきっと此の仇は取ってやる」
 と、恨むことしきりでした。
 何せ。この団右衛門、出が船頭です。武士の作法も、その復讐作法も何も知らない不智不能の下郎です。邪智悪計などあろうはずがありません。そんなもやもやが鬱積しいたのです。
 そのような時です。一気呵成に攻め上った秀吉軍は、冠山の強陣な防戦にたじろぎ、やむなく退却を余儀なくさせられ、この城から退却していたのです。是を、城の内から眺めていた団右衛門、
 「恥ずかしめをそそぐのは今だ」
 と、考えます。それは、退却していく加藤清正等の秀吉軍みて、幾分安堵の気持ちになっているここの毛利軍に、急を突かせ、攻めのぼらせ「落城させることだ」。そうすると、彼はこの城の大将だ。主君に対して申し開きが出来ず、
 「きっと、みんなの前で叱責されるに違いない。そうだ、それがあ奴に対する自分の仇打ちだ。それに決めた」

 と、ばかりに、自らの反逆で、これから起こるだろう戦いが、いかななる結果、強いては、己にいかなる結果をもたらすことになるだろうと云う展望も何もなく、ただ、その時一時の安易な熟慮なき行為に走ります。

 彼、黒崎団右衛門はそんな短慮で城に火を掛けます。そして、戻ってきた清正方の軍勢の為に門を開け、自分はいち早く、一番に駆け込んできた清正の前に出て降参するのです。

 そんなことで、この冠山の城は落ちます。
 是が絵本太閤記に書た石田玉山の冠山城の落城の話なのです。

 しかし、中国兵乱記と云う本によると、ここでは主人公のように取り扱われている団右衛門も松田左衛門も、その名すら見えません。
 この城の火事の原因は、清正が放った伊賀の忍者が城に火を放った為に起きたものだと記しています。その火が燃え広がって弾薬庫も炎上したとも。


 真相はどれが真実かわ分かりませんが、まあ、物語として面白いのは、言わずもがななことですが、「絵本」の方に軍配を上げざるを得ませんね。

 この団右衛門の小者としか言いようのない卑劣な戦いぶりとは違った、当時この戦いの最も優れた勇者として清正と正々堂々と戦い、かつ、散って行った備中早島の人で「武井将監」と云う武将の名が、此の兵乱記に記されています。
 そのお墓は、現在、早島小学校の裏山に、ひっそりと、誰からも顧みられることもなく、石に刻まれている字も薄くなって、忘れ去られるように小さく佇んでいます。
 此の武将について、往時の華々しい清正との戦いぶりが如何なるものであったか、どうして「武井將監」という名前だけが残ったかなどは歴史は、何も書き残されてはいません。ただ、墓石に僅かに残っている消えそうな字がうらやましげに、当時を物語っているように思われるのです。
 
 なお、記録によりますと、此の武井將監の戦いぶりがあまり見事だったと、清正から伝え聞いた秀吉侯は、時の金50両を出して、清正に備中宮内の「賀夜坊」と云う寺で鄭重な法事を催させたとあります。この賀夜坊なる寺は、今ではいずくにあったのか探す手立てすら見つかってはいません。吉備津神社の末寺ではないかと、考えられますが、その記録さえ見つかりません、残念ですが。