私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

死を旦夕に待つのみ

2010-07-17 13:52:41 | Weblog
 当時の高松城は、その三方が深い沼になっていて、渺茫として(果てしなく広々と広がっている様子)、人馬が通ることすらできず、ただ一騎のみしか通ることのできないような細道が一筋しかなく、もう一方は、広い水掘が幾重とも掘なれ、例え幾万の兵を以てしても到底攻め落とすことはできないような難攻不落の城だと、絵本太閤記には書かれています。是が事実だとすると、湯浅常山が言うような「信長は、常に、大功の速に成を忌みなたむの心あるを察しての故なり」と云うのは、にわかに信じられないことだと思われます。
 その様な難攻不落の高松城の攻略方法として、秀吉は「水攻め」を本陣が置かれていた龍王山上から考え付いた云われています。この戦術に黒田官兵衛の助言によって秀吉が決行したと、ある本には書かれていますが、この太閤紀では、このような記述になっています。

 その辺り、どのような経過があったのかは分からないのですが、五月の下旬から堤防工事が始められ五月中旬まで、僅か二十日間で堤は完成します。その様子を太閤記には
 「今五月の末になって水弥高く(たたえ)上り、山を浸し丘を越え、浩々として一大湖水になる」
 と、記されています。
 このまま水嵩が、更に、五尺も増したならば、それこそ城中にいる者は生くべき者一人のなく、「死を旦夕に待つのみ也」と云った状態にあったのです。
 そんな状況にも関わらず、秀吉は、情け容赦も無く、更なる激しい攻撃を高松城に仕掛けます。これが戦国の世の戦いの実態なのです。「無常だが、それが戦いなのだ」と云ってしまえばそれで終わりですが、相手を完膚無きまでに、完全に息の根を止めてしまう、徹底的な戦いが戦国の戦なのです。本当に勝つか負けるかの妥協のない戦なのです。だから、その戦記を読むと、人間のどうしようもない厳しい非常さ、無常さ思わずには居られません。
 
 一般には、そこまでは、此の水攻めで語る人はいないのですが、明日にでもその様子を、秀吉方、清水宗治方、双方の側から追ってみたいと思います。