私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

汗は漿をながして戦う

2010-07-19 08:37:39 | Weblog
 高松城は、今や濁流の底に沈もうとしています。そんな状況を、秀吉は城の背後にある龍王山頂にある本陣から眺めて、その水攻めだけでは飽き足らず、更に、船十艘を繰り出して、大筒小筒を撃ち掛けます。更に、士卒に手に手に熊手を持たせて、塀に攀じ登り城内への突入させ徹底的な城の占領を下知します。
 一方、城中の清水宗治方の士卒は十分に死地をわきまえ、これ以上生きようとする心は露程もなく攻め口を死守し、怯む気色はさらさらありませんでした。中でも、中島大炊守、林与三郎、片山勘九郎、鳥越五兵衛等の武将は汗は漿(こずい)を流して戦います。
 執拗な豊臣方の攻撃にも少しの怯む心なく必死に防戦したのですが、「絵本太閤記」には、兄部川、大堰川、血水川などから引きいれたと書かれている「水」と云う思わぬ自然の難敵に見舞われ、いかに生死を超越した強靭な高松城の士卒といえども、その力に、否応なく、押し流されようとしているのです。

 「汗は漿(こんず)を流す」。
 こんな諺は小学館のことわざ大事典にもありません。なお、漿とはご飯を炊いた時にこぼれるおもゆだと辞書にはあります。汗がおもゆになるのですから、大変な苦労して一心に戦う姿だろうと思いますが。はっきりしたことは分かりません。知っている人は教えていただけませんか。

 この「兄部川」には「かうべ}とルビがふってあります。大堰川(足守川)、血水川は分かりますが、兄部川は、現在の高梁川(当時の川辺川)だろうと思われます。此の川が総社辺りから二手に分かれて、その一つが、この高松を通り、庭瀬の川入に流れ込んでいたのだと思います。
 なお、太田和泉守が記したとされる「太閤記」には、兄部川など固有の河川名ななく、ただ、「五月朔日より、大小之河水を関入れ給へる」と、書いているだけです。

 平家物語に出てくる武将妹尾兼康が造ったと云われる十二ヶ郷用水が流れていたのは事実ですが、本当に、当時、兄部川(現在の高梁川)がこの辺りを流れていたかどうかは疑わしいのです。たぶん間違いだと思います。

 あの佐柿常円は、高松城の水攻めの使った水は、主に大井川の水だと書いていますので、その辺りが正解ではないかと云うのが、現在では、岡山の郷土史家の中では定説になっています?。