私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

なにゅうしょうたんなら

2010-07-21 09:44:24 | Weblog
 毛利輝元が猿掛山の本陣を敷いたと聞いた秀吉は毛利家の陣取を眺めて、「一方ならず悦あへりけり」と書かれています。と、云うのは、輝元が本陣とした猿掛山城は、現在の倉敷市矢掛町にあり、この高松城とは距離にして4,5里は離れており、いざと云う時は何らの役にもたヽないような位置にあります。直接対峙したのが4萬の吉川元春、小早川隆景の軍です。その岩崎山の元春の本陣と水攻め用に築いた秀吉の堤防までの距離は、わずか十町程しかなかったのです。100mほどしか離れてはいませんでした。

 そんなに近い距離にありながら、どうして四萬もの兵力を持っていた毛利軍は、ただ手をこまめいて、秀吉軍の為すがままの戦術に任せなくてはならなかったのでしょうか。
 後世の歴史家だけでなく、その有様を見ていた吉備の人々の多くが思っていたのです。
「なにゅうしょんなら。はよう たすけてやらにゃあ おえりゃあせんがなあ」
 と。

 そんな疑問を村瀬安兵衛は常円さんに投げかけます。しかし常円さんは、総大将吉川元春等が何を評議していたなどと云う事は知る由もありません。
 「長き堤を切てなはす事さへ不成、一線の事は不申及候事不審千萬に候と申す」
 としか、説明が出来なかったのでしょう、安兵衛さんは、こう聞書しているに過ぎません。
 そうです。どうして何もできなかったのか、常に秀吉のお側に控えていた常円さんすら不審千萬なことであったらしいのです。
 結局、この難局をどう立ち向かい、どう打ち破っていけばよいか、その方法等を、吉川・小早川など毛利方の大将たちが長々と会議評定をして、どう立ち向かうか決めかねている間に、城は水に浸たってしまったと、常円さんは語っています。

  ところがです。太閤記には、その辺りの理由がはっきりと出ています。